「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の地

史跡

鳥居強右衛門磔の場

天文9年(1540年)に三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)で生まれ、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いの時の年齢は数えで36歳と伝わります。

強右衛門が使えた奥平氏

奥平氏は今川氏や織田氏松平氏(徳川氏)と所属先を転々とした国衆でした。
元亀年間中は武田氏に従属していましたが、元亀4年(1573年)に信玄が亡くなると再び松平氏(徳川氏)に寝返り、武田勝頼の怒りを買うこととなりました。

長篠の戦い

奥平家当主・奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、長篠城を徳川家康から託され守備していましたが、天正3年5月勝頼が率いる武田軍に攻囲されます。
5月8日に開戦、11、12、13日にも攻撃を受けますが、防衛を続けていました。しかし、13日に放たれた火矢によって兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城はあと数日で落城という状況に追い詰められました。      ▶長篠城(愛知県新城市)

そのため、貞昌は家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断(家康もすでに織田信長に援軍の要請をしていた)。しかし、武田の大軍に取り囲まれている中、岡崎城まで行くことは不可能と思われました。
         ▶岡崎城(愛知県岡崎市)

強右衛門の活躍

この役目を志願したのが強右衛門でした。
14日の夜陰に乗じて城から出発。川を潜ることで武田軍の目をくらまし、包囲網を突破しました。
翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。当日の午後に岡崎城にたどり着き、援軍の派遣を要請しました。

この時、信長も岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていました。強右衛門は、この朗報を一刻も早く伝えようと、長篠城へ引き返します。

16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、入城を試みます。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられます。

強右衛門の悲劇

織田・徳川軍が長篠に向かうことを知った勝頼は、一刻も早く長篠城を落とさねばならなくなります。そこで勝頼は、強右衛門を武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべき」と虚偽の情報を城に伝えるよう命令します。
強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられます。
しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、「あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるように」と城に向かって叫びます。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で強右衛門を殺します。
この強右衛門の決死の報告で貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功しました。

👉強右衛門の死については「斬られて死んだ」「磔にされた」の2種類が伝わっていますが、一般には「磔にされた」とする逸話が有名です。

強右衛門の子孫

強右衛門の子孫は、強右衛門の通称を代々受け継ぎました。
強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、信昌の子・松平家治に付属します。家治が早世すると信昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増されました。
その後、信昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けています。
また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は家中で厚遇された。強右衛門の家系は現在も存続しています。

アクセス

住所:愛知県新城市有海字篠原21-50

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約3.5km
電車🚉
 JR飯田線 鳥居駅で下車、徒歩約10分

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