全国統一を進める秀吉にとって、最後で最大の障害となっていたのが、関東を広く支配していた北条氏政・氏直父子です。
北条氏は関八州と呼ばれる関東一円を支配し、強大な勢力を誇っていました。
関東支配への介入
北条氏規の上洛
秀吉は北条氏に上洛を要求し、特に天皇の聚楽第行幸に列席することを求めました。
👉これは武力だけでなく、政治的にも天下人としての立場を確立するためでした。
しかし、北条氏政はこの要求を拒み、秀吉との関係は緊張状態に入ります。
その後、徳川家康の説得を受け、天正16年(1588年)8月に北条氏規が上洛し、北条氏は表向きは豊臣政権に従う姿勢を示しました。
👉秀長は24日に氏規を屋敷に招いて、接待役を務めています。
沼田領問題への裁定
秀吉はこれを機に、関東地方も豊臣政権の支配下に組み込もうとします。
その一環として重要であったのが、上野国沼田領をめぐる北条氏と真田氏の争いの解決でした。
秀吉は、徳川家康との間で確認された旧来の領土協定(国分)を前提に、氏政の上洛を条件として裁定を下します。
その内容は沼田城を含む領位記の3分の2を北条氏に、残る名胡桃城を含む3分の1を真田氏に帰属させ、真田氏には代替地を徳川家康が与えるという妥協的なものでした。

沼田領を巡る経緯
武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で死去すると、沼田のような武田旧領は近隣の北条氏、徳川氏、上杉氏に加え、真田のような武田旧臣らによる争奪戦の場となっていた。
👉秀吉が直接的な武力衝突を避けつつ、調停者として関東支配に介入する姿勢が明確に表れています。
天正17年(1589年)7月沼田領は北条氏に引き渡され、長年の争いは解決したかに見えました。


名胡桃事件
ところがこの合意を大きく揺るがす事件が起こります。
天正17年(1589年)10月、真田方に残されていた名胡桃城内で内紛が発生、これに北条方の家臣・猪俣邦憲が介入して城を奪取する事件が起こります。
これは秀吉の裁定を無視した行為であり、豊臣政権への挑戦と受け取られました。
秀吉はこれを重大視し、北条氏に対して名胡桃城奪取の弁明と氏政の早急な上洛を求める「最後通告」を行います。
しかし、身の安全が保障されていなかったこともあり氏政の上洛は実現せず、ついに秀吉は11月に北条氏討伐を決意しました。
小田原征伐と北条氏の滅亡
秀吉の出陣
天正18年(1590年)3月1日に秀吉は自ら関東へ出陣し、小田原征伐が開始されました。
総兵力約21万とされる豊臣軍は、徳川家康・上杉景勝・前田利家ら有力大名を動員し、東海道・東山道・水陸両面から北条領国を包囲する体制を整えました。

これに対して北条氏は、小田原城を中心とする籠城戦を選択、箱根・伊豆・武蔵等の支城を防衛線として配置しますが、兵力の質には大きな差がありました。
👉北条氏の軍勢は約10万人。しかし正規軍は3万4千人で残りは訓練が不十分な農兵でした。

豊臣軍の攻勢
4月29日に豊臣秀次を大将とした約7万の軍勢は、松田康長が籠る山中城を攻撃し、あっという間に落とします。



その後、韮山城、下田城、玉縄城、三崎城、江戸城なども次々と落とします。
その一方で、東山道方面からも上杉景勝や前田利家が率いる北陸・信濃勢が、上野国の北条方諸城を攻略して、武蔵国へと進軍しました。
5月22日に武蔵岩付城、6月14日武蔵鉢形城、23日に武蔵八王子城という要所が落城しました。
6月26日には秀吉が石垣山城に入り、小田原城を見下ろす位置から圧力をかけました。
これにより北条軍の士気は大きく低下し、もはや反撃の余地はなくなります。
▶石垣山城

北条氏の降伏と滅亡
北条氏は徳川家康、織田信雄を仲介し、秀吉との和睦を模索していました。
7月5日、氏直は秀吉から提示された和睦の条件を受け入れ、城兵を助命することを確認して降伏します。
7月6日、小田原城は開城。約3ヵ月に及んだ戦いは終結しました。
こうして、小田原合戦は終了し、北条氏は滅亡しました。
👉天正19年(1591年)8月に氏直は秀吉から許され、1万1千石の知行を与えられましたが、同年11月大坂で亡くなります。
秀吉は関東地方を完全に掌握し、全国統一をほぼ完成させたのです。
まとめ
- 小田原征伐は、豊臣政権が関東を最終的に編入する過程で起きた戦争である。
- 秀吉は武力行使に先立ち、上洛要求や領土裁定を通じて政治的解決を図った。
- 沼田領裁定と名胡桃城事件は、討伐決定の直接的契機となった。
- 豊臣軍は多方面からの包囲戦で、北条領国を崩壊させた。
- 北条氏の滅亡により、秀吉の全国統一は実質的に完成した。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク



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