滝川一益の挙兵と伊勢攻略
天正11年(1583年)本能寺の変後の織田家の主導権を巡って、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が決定的なものになります。
その最初の大きな動きが、伊勢国での滝川一益の挙兵です。
滝川一益の挙兵
天正11年正月、伊勢の滝川一益は、柴田勝家側につくことを明確にし、亀山城・峯城・関城などを支配下に置きます。
一益自身は長島城に入り、秀吉軍を迎え撃つ体制を整えました。
秀吉の出陣
これに対して秀吉は2月10日、三方向から北伊勢に進軍する作戦を開始します。
秀吉・秀長・三好信吉の3軍に分かれ、峠を越えて一益の城を次々と攻撃していきます。
峰城や亀山城は激しく抵抗し、2月末には織田信雄が峰城に出陣。
最終的に両城の城兵は長島城へ退き、伊勢での戦いは秀吉側が主導権を握ります。
柴田勝家の出陣
毛利氏との連携を模索
勝家は2月、将軍義昭を庇護していた毛利氏に援助を求めます。
これには、義昭の権威と毛利氏との同盟によって政治的指導権を奪う意図が含まれていました。
勝家の出陣と秀吉の対応
越前を本拠とする勝家は、雪で出陣が遅れていましたが、伊勢での不利な状況を見て2月末に出陣し、3月5日に近江・木之本まで進軍します。
秀吉は伊勢に軍を残して近江に戻り、6日には佐和山城や長浜城を拠点に防衛体制を進めます。


秀吉と勝家の対峙
両軍は柳ケ瀬から賤ケ岳周辺で向かい合い、しばらくは砦や陣地を築いてにらみ合う状態が続き、9日は秀吉は一旦安土城に戻ります。
▶安土城(滋賀県近江八幡市)

勝家の工作
3月14日勝家は義昭を通じて、毛利輝元に出兵を督促します。
秀吉の作戦
3月11日秀吉は軍勢を再編し、柳ケ瀬に向けて進軍します。
軍勢は13軍に分けられ、1番備えは堀秀政、6番は三好信吉、7番は秀長、12番は秀吉嫡男・次秀勝、13番に続いて秀吉本隊が構成されました。
そして最前線右の左禰山に堀秀政、左の堂木山に柴田勝豊の軍勢、それより下がって大岩山に中川清秀、岩崎山に高山右近、さらに下がって右の田上山に秀長の本陣が置かれ、左の賤ケ岳頂上にも秀長家臣・桑山重勝が置かれました。

ここでも膠着状態が続き、秀吉は伊勢進軍を図って3月27日に長浜城に帰還します。
3月31日に秀吉が秀長に送った書状で、陣所外の小屋を撤廃して敵襲時の火災・混乱を避けること、柴田勢の攻撃を想定して対陣を禁じること、出火責任の明確化など、具体的に軍紀・防御指示を出しています。
秀長、美濃の守に改称
また、上記の書状で秀長は「美濃守」と記されています。
これは秀吉から受領名を与えられて、秀長が織田家の直臣から、秀吉の直臣となり、秀吉の代行を果たすことができる一門衆になったと考えられます。
戦局の変化と柴田軍の優勢
4月に入ると戦局が大きく動きます。
4月2日未明に堀秀政の陣所が柴田勝家から攻撃を受けますが、防御します。
同時に勝家・義昭は毛利氏へ再三出兵を促しています。
滝川一益の美濃進軍
4月16日、滝川一益が織田信孝と合流するため美濃に進軍して、美濃の秀吉方を攻撃します。
これによって近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は、翌4月17日美濃に進軍し、大垣城に入ります。
おそらくちょうどその直後、柴田勝豊の重臣・山路政国が陣所を放火して柴田方に寝返ります。

柴田勢の攻撃
これを好機と見た勝家は、4月20日に佐久間盛政に大岩山を攻撃させます。
大岩山砦は支えきれず陥落、守っていた中川清秀は討ち死にします。
岩崎山の高山右近も退却するなど、柴田軍優勢の戦況となっていきます。
👉勝家は盛政に撤退命令を出しますが、盛政はこれに従おうとはせず、前線に着陣し続けました。
これが後の敗因となります。
👉4月20日毛利氏は、勝家や義昭の要請には応じないことに決します。
美濃大返しと賤ケ岳の決戦
美濃大返し
この報を受けた秀吉は、大垣城から近江・木之本まで約50Kmをわずか5時間で帰還しました。
(「美濃大返し」)
賤ケ岳の決戦
翌4月21日、卯の刻(午前6時の前後2時間)に開戦。
盛政隊は秀吉らの大軍に強襲されますが奮戦します。
秀吉は盛政の弟・柴田勝政に攻撃対象を変更、それを盛政が救援する形で激戦となります。
激戦の中で活躍したのが、加藤清正、福島正則らの「賤ケ岳七本槍」と呼ばれる若手武将達でした。
彼らの奮戦によって、秀吉軍は次第に柴田軍を押し返して行きました。
前田利家の離脱と柴田軍の崩壊
勝敗を決めたのは、柴田方の有力武将・前田利家が戦線から離脱したことです。
これにより柴田軍の士気は大きく低下し、他の武将も次々と退却しました。
柴田勝家の最後と秀吉の台頭
秀吉は勝家を追撃し、北ノ庄城を包囲。
4月24日、柴田勝家はお市の方とともに自害します。

(福井市)


(福井市)

(西光寺/福井市)
戦後、盛政は捕縛・処刑され、秀吉は毛利重臣へ勝利を通告して服属を促します。
さらに信孝も後ろ盾を失って降伏・自害に追い込まれ、滝川一益も最終的に開城・出家して蟄居します。


こうして秀吉は畿内政治の主導権を決定的に掌握していきました。
まとめ
- 滝川一益の挙兵をきっかけに、秀吉と柴田勝家の対立は武力衝突に発展した。
- 両軍は近江・賤ケ岳周辺でにらみ合い、4月に本格的な決戦が行なわれた。
- 秀吉の「美濃大返し」と若手武将の活躍、さらに前田利家の離脱が勝敗を分けた。
- 賤ケ岳の戦いの勝利により、秀吉は織田政権の主導権を完全に掌握することとなりました。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


コメント
勝家は盛政に撤退命令を出しますが、盛政はこれに従おうとはせず、前線に着陣し続けました。
これが後の敗因となります。
これって根拠薄くないか?そもそも盛政って撤退しながら奮戦してませんでしたか?