豊臣秀長 秀長も参戦 信長の伊勢長島侵攻

豊臣秀長

長島一向一揆

元亀元年(1570年)9月の大坂本願寺の蜂起(石山合戦)に伴い、伊勢長島の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文により伊勢長島でも一向宗門徒が蜂起します。
また、これに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆勢に加担しました。

数万に及ぶ一揆衆は長島城を攻め落とすと、11月には織田信興(信長の弟)の尾張・小木江城を攻撃、信興を自害させ城を奪取。さらに桑名城の滝川一益を敗走させていました。

第一次長島侵攻

元亀元年9月、石山合戦に対応していた信長の背後を脅かすように、浅井朝倉勢が近江に進出します。
浅井・朝倉勢は宇佐山城の戦いに勝利するなど近江で優位に立ちます。

これに対して、信長は講和を結びますが、翌年2月佐和山城の磯野員昌が信長に城を開け渡して退却。5月には横山城の秀吉が浅井勢を破るなど、近江での勢力を盛り返してきました。
ここで信長は北伊勢への出陣を決めます。

元亀2年(1571年)5月12日

信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。
軍勢は3手(信長本体、佐久間信盛隊、柴田勝家隊)に分かれて攻め入ります。

元亀2年(1571年)5月16日

柴田軍は周辺の村々に放火して、ひとまず軍を引こうとします。
しかし、一揆勢は山中に移動して、撤退路が狭くなっている箇所に弓兵・鉄砲兵を配備して待ち受けていました。
信長本体と佐久間軍は兵を引くことが出来ましたが、殿の柴田勝家が負傷。
代わって殿軍を務めた氏家卜全が討ち死にという結果に終わりました。

第二次長島侵攻

2年後の天正元年(1573年)8月に朝倉氏、9月に浅井氏を滅亡させた信長は、再び伊勢に進軍します。

天正元年(1573年)9月24日

信長は数万の軍勢を率いて北伊勢に出陣

天正元年(1573年)9月26日

佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀蜂屋頼隆らが西別所城を攻め落とす

天正元年(1573年)10月6日

柴田勝家・滝川一益らも坂井城、近藤城を攻略

天正元年(1573年)10月8日

信長は本陣を東別所に移動すると敵将が相次いで降伏します。
しかし、城山城の中島将監が顔を見せなかったため、佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆の4人に命じて金堀り攻めをさせ、退散させました。

天正元年(1573年)10月25日

信長は矢田城に滝川一益を入れ、美濃へと帰陣を開始。
林通政が殿軍を務めましたが、雨が降り出して火縄銃が使えなくなり、白兵戦となります。
通政は討ち取られ、人足の損害を出してしまいました。

信長、またもや損害を出してしまいます

第三次長島侵攻 ・・・ 秀長参戦

天正2年(1574年)、信長は三度目の北伊勢への進軍を決意します。

👉秀長は「木下小一郎」の名で信長直臣として、丹羽長秀らとともに出陣しています。
 いよいよ秀長の登場ですね
 秀長は信長の直臣として軍事行動に参加しているので、この時は信長直臣の立場が維持されてい
 たと考えられます。
 この立場は信長死去まで変わらなったと思われますが、信長の軍事行動に直接従うことは、
 この戦いを最後に見られなくなります。以後は、秀吉に従ったと思われます。

天正2年(1574年)7月

今度は陸と海から長島への侵攻作戦が開始されます。
陸からの攻撃は
 東から織田信忠の部隊、西から柴田勝家の部隊、中央からは信長の本体と3隊。
海からの攻撃は
 九鬼喜隆などが動員されます。

👉いよいよ決戦です。
 畿内で政務にあたる明智光秀、越前方面の抑えの羽柴秀吉などを除き、7~8万という織田家
 でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれました。

天正2年(1574年)7月14日

陸から攻撃が開始されます。
・柴田勝家部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴
・信長本隊は小木江村を固めていた一揆勢を破り、羽柴秀長・浅井政定は篠橋砦を攻め、
 丹羽長秀はこだみ崎に船を集めていた一揆勢を撃破します。

 👉秀長も活躍していますね。

天正2年(1574年)7月15日

海からも攻撃を開始。
九鬼喜隆の安宅船を先頭とした大船団が到着。織田信雄も伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着。長島を囲む大河は織田船団で埋め尽くされました。

一揆勢は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込みます。
大鳥居・篠橋城は織田信雄信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきますが、信長はこれを許さず、兵糧攻めにしようとします。

天正2年(1574年)8月2日

大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを、男女千人程を討ち取り、大鳥居城は陥落。

天正2年(1574年)8月12日

篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきたので、織田軍はその要求を受け入れ、長島城に追い入れます。

長島城では人数が増えたため兵糧の減りが早まり、結果的に城中では多くの者が餓死します。

天正2年(1574年)9月29日

長島城でも降伏を申し出て船で退去しようとしましたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、多くの門徒が射殺、あるいは切り捨てられました。
これに怒った一揆衆の捨て身の攻撃により、信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くのい織田一族が戦死します。
さらに信長は、残る屋長島・中江を幾重にも柵で囲み、火攻めにして城中の2万の男女が焼死しました。

信長の包囲を突破した門徒宗は大阪方面に逃亡しますが、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、信長は長島城を滝川一益に与え、岐阜に帰還します。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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