秀長が紀伊・和泉を領国として与えられたのは、紀伊攻めの最中でした。
天正13年(1585年)4月上旬頃と考えられています。
紀伊北部の戦いは4月下旬には一旦終結しましたが、紀伊南部や熊野地方には旧勢力や反対勢力が残っており、決して安定した状態ではありませんでした。
その後、秀長は6月から四国征伐に参加したため、本格的な領国支配に取り掛かるのは帰陣後となりました。
👉秀長が四国征伐から帰陣したのは天正13年8月22日もしくは23日頃と考えられています。
紀伊における検地
検地実施の通達
領国支配を進める上で、秀長が最初に着手したのが検地になります。
検地とは、田畑の広さや収穫量を調べ、年貢(税)の基準を決める調査で、豊臣政権の支配の基本となる政策でした。
秀長は紀伊国内の百姓に対して検地を行うことを通達し、協力を求めました。
また、村ごとの教会(庄堺)があいまいにならないよう注意を促し、小堀正次を各地に派遣して、その指示に従って検地を行うことを命じています。
👉この検地命令は、史料上は紀伊宛てのものしか残っていませんが、同時に支配した和泉にも出されていたと考えられます。
検地の実態
しかし、天正13年に検地が実施されたのは和泉国のみで、紀伊国では行われなかったと考えられています。
紀伊で最初に検地が確認できるのは、天正15年(1587年)の日高郡江川村の検地帳であり、熊野北山地域や高野山領以外の地域で行われたと推定されます。
熊野北山地域で検地が行われたのは天正18年、高野山領では秀長が亡くなった直後の天正19年であったとことが確認されてます。
👉秀長は、生涯のうちに紀伊全体を完全に把握できなかったのです。
紀伊の特殊性
紀伊は熊野や高野山といった宗教的・地理的に特殊な地域の制圧が困難であったことを示し、秀吉が統治困難な地域をあえて秀長に委ねた理由も、ここにあると考えられます。
紀伊支配の実態
一方で、秀長は天正13年閏8月に大和国の郡山城に入っています。
これは、秀吉が四国・北陸を平定後の国替えによって、秀長に新たに大和国を与えたためです。
▶大和郡山城(奈良県大和郡山市)

そのため、紀伊の支配は桑山重晴(和歌山)、杉若無心(田辺)、堀内氏善(新宮)といった家臣たちが城代として担当しました。
ただし、彼らがどのように行政をおこなったかについては、詳しい史料が残っていません。
秀長や家臣による紀伊支配は順調とは言えず、地元の武士や百姓が反発することは、戦国時代には珍しくなく、紀伊でも同様の状況が見られました。

紀伊熊野侵攻
天正の北山一揆
こうした不安定な情勢の中で起こったのが、天正14年(1586年)7月の天正の北山一揆です。
熊野の旧勢力である湯川氏や山本氏の残党が蜂起し、秀長方の泊城を攻撃します。
これを受けて秀長は自ら8月28日に紀伊へ出陣しました。
熊野侵攻
秀長は熊野本宮社に協力を求め、9月3日に有田郡広城に着陣、明後日には田辺着陣を予定し、本宮社、堀内氏善と連携して東西から敵を挟み撃ちにする作戦を取っています。
9月9日の戦いでは、伊藤祐時が戦死するなど大きな犠牲も出ましたが、全体としては秀長軍が優勢に進めたと思われ、23日には「紀伊存分」として郡山城に帰陣しています。
その後も戦闘は続き、11月には反乱軍の大将・山本某が奈良で処刑されています。
👉戦死した伊藤祐時の所領であった宇陀郡は、27日に秀吉から加藤光安の与えられ、同様に秀長の与力に配属されています。
11月17日には四村庄に判物を出し、百姓に不当な行為をする者がいれば厳しく処罰すること、課税は秀長の正式な命令によってのみ行うことを約束しています。
これは軍事力だけでなく、百姓を保護し反乱の再発を防ぎ、支配を安定させるための措置でした。
熊野制圧
この時点で熊野地域の大部分は制圧されましたが、最も奥地にあたる北山地域は残されていました。
北山地域の攻略は、天正16年(1588年)9月から本格的に始まり、秀長家臣の吉川平介・同三蔵、堀内氏善が北山地域に侵攻しました。
👉この時、秀長は23日まで摂津有馬湯に滞在、30日には大和に滞在していました。
👉吉川平介は、天正16年(1588年)12月に熊野の木材伐採で私腹を肥やしたことが発覚して、秀吉によって大和西大寺で処刑され、洛中に首を晒されました。
秀長も秀吉の怒りに触れ、一時期面会も叶わない状態となりました。
雪による影響か、一時撤退をはさみつつ、天正17年4月5日には再度侵攻が行われ、日暮峠から鵜殿にかけの地域が攻略されたと伝わります。
これにより、秀長は北山地域全体を制圧し、紀伊一国の平定を達成。翌天正18年11月には北山地域で検地が行われるに至りました。
秀長が紀伊に入ってから、実に5年の歳月が経過していました。
まとめ
- 秀長は、豊臣政権下で統治が困難な紀伊・和泉を任された。
- 紀伊は山地が多く、宗教勢力も強いことから、支配と検地が困難であった。
- 検地は和泉から始まり、紀伊全体では長い時間を要した。
- くのでは一揆が起こり、秀長は自ら出陣して制圧した。
- 北山地域の攻略と検地によって、紀伊平定は5年後に完成した。


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