豊臣(羽柴)秀長について書かれた史料は少ない。
彼が兄・秀吉の補佐役に徹し、彼自身が主役となる記録を残す機会が少なかったこと。
後継者や主要な子孫がいなかったこと。彼の生涯に特化した記録が継承されにくかったこと。
彼の死後、豊臣政権が短命で終わったこと等が一因と考えられます。
ここでは、彼が仕えた織田信長、豊臣秀吉に関連した出来事を通じて、豊臣秀長に触れています。
秀吉の昇進と秀長の決心
信長に仕官した秀吉はあっという間に昇進していきます。
秀吉の昇進過程
永禄4年(1561年)
・8月に清洲城の塀が崩れてしまい、秀吉は修理を担当する奉行を買って出ます。
これを見事に成し遂げた秀吉を、信長は「足軽」に取り立てます。
👉この時に「中村藤吉郎」と名乗ったとされます。(中村は出身地名に由来する)
・木下雅楽助(うたのすけ)の寄子に編成され、足軽給分を支給されるようになる。
・信長の美濃攻略戦(森部の戦い、十四条合戦、軽海合戦)に参戦
永禄5年(1561年)
・5月、信長の馬廻衆・福富平左衛門尉秀康が所持していた金竜の笄が盗難に合います。
秀吉は無実の罪を着せられますが、自らの才覚で疑いを晴らしたことを信長が賞し、所領30
貫文(約300万円)を与えられ、「直臣」に取り立てられます。
👉この時に、信長の指示で木下雅楽助から苗字を得て、「木下藤吉郎」を名乗ります。
永禄6年(1562年)
・前年、信長の従兄弟で犬山城主の
織田信清が、斎藤龍興に寝返るという事件が起きます。
秀吉はここでの軍功で、信長から所領100貫文(約1千万円)を与えられます。
さらに、数千貫文の所領を持つ「侍大将」へと出世していきます。
犬山城▶

この時点で、秀吉の年収は約1,000万円!!
一部上場企業(織田家)の管理職(侍大将)に昇進したようなものでしょうか。
👉永禄8年初旬、信長は犬山城を攻略して、尾張平定を果たします。
秀長、信長家臣へ
秀吉が織田家中で昇進していく中、永禄5年か6年頃に秀長は秀吉の誘いを受けて、信長の家臣になったと考えられています。
それに伴い秀長は、苗字を秀吉と同じ「木下」苗字を、実名は信長から「長」を偏諱として与えられ、秀吉の「秀」字を冠して、「長秀」を名乗ります。
👉信長から偏諱を与えられていることから、信長の直臣であったといえます。
(天正2年(1574年)7月の伊勢長島攻めで、先陣を務めていることからも分かります)
秀長がついに武士になります。
しかし、史料上で秀長の実際の活動が確認できるのは、もう少し後になります。
秀吉と秀長の結婚
永禄7年(1564年)
・秀吉は正月の年頭儀礼で清洲城の広間に着座するようになっていました。
清洲城▶

永禄8年(1565年)
・信長中美濃制圧
・秀吉最古の発給文書を発行(後述)
・秀吉がねね(高台院)と結婚したと推定
永禄10年(1567年)
・信長美濃平定
岐阜城▶

永禄11年(1568年)
・信長北伊勢平定
・信長上洛 👉箕作城・観音寺城の戦いに秀吉参戦
秀吉の婚姻
永禄8年、秀吉は信長の馬廻衆で弓衆を率いた浅野長勝(後の5奉行の一人浅野長政の養父)の養女・「ねね(高台院)」と結婚します。
彼女の実父・杉原定利は、秀吉母方の叔母が嫁いだ杉原家次の妹婿にあたり、高台院と秀吉は親類関係にあたりました。
秀長の結婚
この時期の秀長は、すでに結婚し、嫡男が誕生していたと考えられます。
確実ではありませんが・・・
秀長には早世した嫡男・与一郎がおり、天正10年(1582年)に死去しています。
その時点で、与一郎というけ仮名を称していることから元服していたと考えられます。
死去した年の元服としても15歳になっていたと思われ、そうすると永禄11年の誕生となります。母は秀長の正妻・慈雲院とみられ、結婚は与一郎誕生の2年前の永禄9年と考えられます。
秀吉最古の発給文書
永禄8年11月2日付けで秀吉は書状を発行しています。(秀吉29歳)
秀吉は坪内利定の尾張国丹羽郡の下野(愛知県扶桑町)ほかで、信長の指示により所領を与えています。
この書状は現存する秀吉の最も古い書状として伝わりますが、元本では写本として伝わっています。
👉これは秀吉が信長の有力武将の一人として認められていたことを示し、彼の所領が尾張国北部にあった可能性を示しています。」
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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