清須会議の性格
参加者
天正10年(1582年)6月27日に清洲城で開催された清洲会議は、本能寺の変後の織田政権の再編を目的とした会議でした。
参加者は柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の織田家重臣4名であり、信長の子である信雄・信孝や徳川家康は決定事項を受け入れる立場にありました。

会議の目的
従来は「後継者決定会議」と理解されていましたが、近年の研究(柴裕之説など)では、三法師(信長嫡孫)が当主となることは既定路線であり、会議の主旨はその補佐体制と政権運営の枠組みを定める点にあったとされています。
織田政権の体制
会議の結果、三法師が家督を継ぎ、信雄・信忠が後見人、堀秀政が傅役、さらに秀吉・勝家ら四宿老が補佐する集団指導体制が構築されました。
7月8日には三法師が上洛し、京都社会から織田家当主として承認を受けました。
領地配分と秀吉の台頭
清須会議では、信長および明智光秀旧領を中心とした再配分が行われました。
結果として秀吉は従来の播磨・但馬に加え、山城・丹波、河内東部を獲得し、政治的・軍事的基盤を大きく拡張します。
👉織田家中における勢力均衡は柴田勝家から秀吉優位へと転換した。
ただし、単独最高権力者ではなく、あくまで宿老の一人として体制内に位置付けられていた。
👉信長の妹・市が柴田勝家に嫁ぐことが決められ、9月11日以降に婚姻がなされています。
秀長の丹波支配
秀吉の勢力拡大に伴い、弟の秀長には丹波福知山領が与えられました。
これは但馬から京都へ至る山陰道の掌握と、物流・軍事・情報面での戦略的必要性からなされたものと考えられます。
丹波では光秀没後の混乱が続いていましたが、秀長は禁制発給や在地秩序の維持を通じで、比較的穏健な支配を進めました。
ただし、この支配は天正11年(1583年)3月までで、秀長は賤ケ岳の戦い後に姫路城に入ります。
清須会議後の政局分裂
清須会議後、秀吉は堀秀政・丹羽長秀・池田恒興と連携し、政権内で主導権確立を進めていきます。一方、信孝は柴田勝家や滝川一益と結び、反秀吉陣営を形成していきます。
さらに関東・甲信地域では、旧武田領をめぐる「天正壬午の乱」が発生し、徳川家康が進出を図るなど、織田政権の統制力の弱体化が顕在化されていました。
信長葬儀と清須会議体制の破却
信長葬儀の政治的意味
織田政権内部で主導権争いが続く中、秀吉は信長の葬儀を主催し、政治的象徴行為として利用します。
10月15日の大徳寺の葬儀では、嫡男の次秀勝(信長4男)を喪主として、秀吉が位牌を持ち、織田家後継者としての立場を世にしめす結果となりました。
👉この葬儀で秀長は警固大将を務めました。
清洲会議体制性の破却
👉この葬儀には信雄・信孝・柴田勝家・滝川一益は参加せず、丹羽長秀は家臣を代参させ、池田恒興は次男・照政(後の輝政)を参加させています。
その後、秀吉は10月28日に信雄を三法師の「名代」として当主に擁立し、清須会議で定められた体制を事実上破却した。
これにより織田家は完全に分裂しました。
最終的に秀吉が軍事行動によって美濃・長浜を制圧、岐阜城にいた三法師を受け取り、信雄に同行するかたちで安土城に入城します。
天正11年(1583年)閏1月4日に信雄は、安土城で諸将らの挨拶を受けて、三法師「名代」織田家当主としての立場を確立させました。



これによって織田政権は、当主信雄とそれを補佐する羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興のもとで運営が進められていくことになります。
👉この時秀吉は長秀の三男・仙丸(のちの藤堂高吉)を引き取り、秀長の養子としています。
(この時、嫡男・与一郎は早世しています)
まとめ
- 清須会議は本能寺の変後の後継者選定そのものよりも、三法師を当主とする政権運営体制の確立を目的とした会議であった。
- 会議によって集団指導体制が構築されたが、領地再配分により秀吉が急速に勢力を拡大し、織田家内部の力関係が大きく変化した。
- 清須会議後、秀吉は丹羽長秀、池田恒興らと連携して主導権を強める一方、信孝・柴田勝家らとの対立が深刻化し、織田政権は分裂へと向かった。
- 信長の葬儀主催という象徴的行為や軍事行動を通じて、秀吉は清須会議の合意を事実上破却し、政権の実権を掌握していった。
この過程は、織田政権の集団指導体制が短期間で崩壊し、豊臣秀吉による個人的権力へと再編されていく過程を示しています。
清須会議は織田政権から豊臣政権への移行を理解するうえで重要な歴史的転換点と位置付けられています。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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