播磨・但馬を平定した秀吉は、毛利氏の勢力下にある因幡国に侵攻します。天正9(1581年)の侵攻では「鳥取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを展開して落城させ、秀吉の勢力は東伯耆まで広がりました。その過酷な兵糧攻めの実態について触れています。
第1次因幡侵攻(天正8年)
織田信長の中国攻めを任された羽柴秀吉は、播磨・但馬を平定した後、毛利氏の勢力下にある因幡国(鳥取県東部)へ進軍しました。
因幡の中心は山名豊国の治める鳥取城で、ここを攻略することが秀吉の次の目標となりました。
天正8年(1580年)秀長が但馬の計略を進めていた一方で、5月中旬秀吉は因幡中央部まで進軍し、秀長や宮部継潤らと合流して鳥取城を包囲しました。
秀吉軍は東と南から城を圧迫し、6月初旬には城主・山名豊国は降伏し、7月下旬に秀吉は一旦姫路へ戻ります。

しかし秀吉が去ると、8月21日に家臣たちは山名豊国を追放し、再び毛利氏に寝返り、鳥取城は毛利方の手に戻ってしまいました。
毛利側は、天正9年(1581年)3月に石見国(鳥根県西部)の武将・吉川経家を新たな城主として派遣し、鳥取城を守らせます。
第2次因幡侵攻(天正9年)
秀吉は天正9年にふたたび鳥取城攻略に乗り出します。
秀吉は6月27日に姫路城を出陣し、但馬七美郡で発生した一揆を鎮圧したのち、軍勢を整えてそのまま鳥取城へ進軍。
秀長は2~3万の兵を率いて先陣を務め、7月7月に鳥取城周辺に展開しました。
ここで秀吉が採用したのが、有名な「鳥取城の渇殺し(かつごろし)」と呼ばれる兵糧攻めになります。
鳥取城の渇殺し(兵糧攻めの実態)
史料「陰徳太平記」によれば
秀吉は若狭の承認を使って米を高値で買い占め、城側の食料確保を阻止すると同時に、周辺の農民約2,000人をわざと城内に追う込んだといいます。
城内にはもともと20日分の兵糧しかなく、加えて籠城兵訳1,400名以外にも多くの避難民を抱えたため、食料は短期間で枯渇したといいます。
数週間後には家畜・雑草まで食い尽くされ、餓死者が続出する悲惨な状況に陥りました。
形式上の総大将は秀長だが、戦略を主導したのは秀吉と考えられ、秀吉の兵站戦重視の姿勢が鮮明に現れた戦いでした。
鳥取城の落城
天正9年10月25日、城主・吉川経家は「兵の命を助けること」を条件に、自ら切腹して開城しました。
秀吉は約束通り降伏した兵の助命を認めました。
しかし、極度の飢餓状態にあった兵たちは、秀吉軍から与えられた粥を食べた後に急死する者が多く、「信長公記」などの記録から、現代では極度の飢餓状態で高栄養を摂取した際に起こる「リフィーディング症候群」による急死だったのではないかと言われています。
鳥取城には秀吉の家臣・宮部継潤が城代として入り、11月8日に秀吉は姫路へ帰還。
この結果、秀吉の勢力は因幡から東伯耆(鳥取県西部)へと広がり、毛利氏の勢力は西蜂起まで後退しました。
淡路平定
同じ年、秀吉は毛利方の前線基地であった淡路島の平定にも乗り出しました。
11月16日に先陣を送り、18日に自ら侵攻し、21日には姫路に、戻っています。
秀長はこの戦いには参加せず、竹田城に残っていたと考えられます。
まとめ
- 秀吉は因幡攻略のため、2度に渡り鳥取城を攻めていました。
- 鳥取城には食料が少なく、秀吉の徹底した兵糧攻めにより極度の飢餓状態となりました。
- この兵糧攻めは「鳥取の渇殺し」と呼ばれ、戦国時代でも苛烈な攻城戦として知られます。
- 鳥取城主・吉川経家は城兵の助命と引き換えに自害し、鳥取城は開城。秀吉は因幡方面の支配を確固たるものとしました。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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