秀吉、中国地方出陣を決意
毛利氏と宇喜多氏抗争
天正9~10年(1581~82年)にかけ、中国地方の派遣を握る毛利氏と、毛利氏と国境を接する宇喜多氏の構想が備前(岡山県東部)・備中(同西部)・美作(同北東部)で激化します。
宇喜多直家は天正7年(1580年)に秀吉に従属し、織田政権への参加を認められましたが、天正9年末~10年初に病没し、その死が秘匿されたまま戦闘が継続されていました。
天正10年1月末、秀吉は安土で信長から幼少の秀家への家督相続と宇喜多家存続の承認を得ており、宇喜多家は織田勢力圏の「最前線の同盟者」として保護されていました。

宇喜多氏の大敗・・・八浜合戦
しかし、天正10年(1582年)2月の八浜合戦で宇喜多氏が大敗します。
秀吉は、宇喜多氏が毛利氏に滅ぼされることがあれば、毛利氏の攻略が難しくなると考え、中国地方への出陣を決意します。
毛利氏は国境の「境目に七城(備中七城)」を防衛線とし、織田家を受け止める構想を取ります。
中国地方へ出陣
天正10年(1582年)3月15日、秀吉は約2万の軍勢を率いて姫路城を出発し、備中へ進軍します。
秀長も5千の兵を率いて従軍しました。
途中で常山城の戦いがあり、信長の4男で秀吉の養子となっていた次秀勝が初陣を飾っています。
備中高松城を包囲
4月15日、秀吉は毛利方の重要地点である備中高松城を包囲しました。
この城は低湿地に築かれた平城で、鉄砲・騎馬による強襲が効きにくい地形的利点を持っていました。
高松城は清水宗治が3~5千の兵で守っていました。
正面攻撃では落としにくいため、秀吉は蜂須賀家政・黒田孝高を使者に備中・備後(広島県東部)を与える条件で降伏を勧めます。
しかし、宗治は主君・毛利輝元への忠義を貫き、これを拒否します。
そこで、秀吉は周辺諸城(日畑・冠山・庭瀬・加茂など)を順次攻略し、包囲を強めていきました。
秀吉から秀長に出された最初の文書
一歩で秀吉は軍の規律を重視していました。
3月26日、秀長に以下の3ヵ条の条書を与えます。
1条目:陣取りや行軍中に濫暴狼藉をおこなわないこと。
2条目:味方の領内で「押し買い(無理矢理に買うこと)」・放火などを決して行わないこと
3条目:糠・薪などの物資は所有者の了解を得たうえで貰うこと。
秀長の軍勢には秀吉から付属された与力衆も含まれていたと思われ、条書を渡し秀吉の遂行者として、自身の家臣でなくても成敗できるようにしたと考えられます。
秀吉からの掟書
天正10年(1582年)4月、さらに秀吉は参陣していた秀長に掟書を与えます。
1条目:岡山町における売買について、今まで通り「かハリ(内容不明)」を取り交わすように
求めています。
2条目:岡山町で在陣中の者が下々の者に無礼なことを行わないように規定。
3条目:当国家(備前の宇喜多家)と秀吉軍の者が喧嘩口論に及んだ場合、理非にかかわらず
秀吉軍の者を処罰することを定めた。
※岡山町とは宇喜多氏の居城があった岡山城下と思われます。
秀長は岡山に在陣した際、治安維持の一旦を担わされていたと考えられます。
高松城水攻め
高松城を攻めあぐねた末、5月7日に秀吉は水攻めという大胆な作戦を選びます。
水攻めとは、城の周囲に堤防を築き、川の水をせき止めて城を水没させる作戦でした。
わずか12日で堤防は完成し、梅雨の雨も重なって足守川が増水し、城は孤立しました。
城内では兵糧が不足し、士気も大きく低下していきました。
毛利勢の救援
毛利輝元は吉川元春、小早川隆景らを率いて救援に向かい、秀吉軍と対峙しますが、秀吉が造成した「湖」により動きを阻害され、戦局は膠着します。
同時に交渉も行われ、毛利は安国寺恵瓊を派遣して五国割譲・城兵保全を提示しますが、秀吉は五国割譲に加え清水宗治の切腹も要求し、交渉は一旦決裂します。
当初は条件が折り合わず、戦いは長期化するかに見えました。
本能寺の変
和睦
そのような中、6月2日京都・本能寺で信長が明智光秀がに討たれます。
翌日、その知らせが秀吉のもとに届きます。
秀吉は事態を悟ると、対毛利戦の「早期終結」を優先し、割譲範囲を備中・美作・伯耆の三国に縮小する一方、宗治の自刃を和睦を成立させます。
6月4日、宗治は儀礼的手続きを踏んで自害し、開城が完了しました。
中国大返し
秀吉は直ちに撤兵し、6月5日沼 ー 6日姫路 ー 9日明石 ー 12日富田と急進し、「中国大返し」を敢行しました。
毛利側が変報を受けたのは秀吉撤退翌日で、追撃論(元春)と誓紙遵守論(隆景)が対立した末、輝元は追撃を断念し、秀吉は安全に畿内に復帰しました。
畿内では光秀の支配がまだ固まっておらず、大阪周辺の軍は動揺していましたが、摂津衆や信孝・長秀らが合流し、秀吉軍は再び2万超に回復していきます。
こうして秀吉は、天下取りへの大きな一歩を踏み出すことになります。
まとめ
- 宇喜多氏の敗北と不安定化は毛利攻略の前線を揺るがし、秀吉は中国進出を決断した。
- 高松城包囲では地理条件から正攻法を避け、水攻め、周辺城攻略などを組み合わせて
圧力を強めた。 - 秀長への条書・掟書に見られる軍紀と占領統治の制度化を進め、同盟者領国の治安維持を
図った。 - 本能寺の変後、秀吉は即時講和で戦線を畳み、中国大返しで畿内に帰還して主導権獲得へ
つなげた。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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