豊臣秀吉は全国統一を進める中で、自分の命令に従わない大名を「国内秩序を乱す存在」とみなしました。
九州南部で勢力を誇った島津氏は九州各地に進出し、天正14年(1586年)12月の戸次川の戦いで秀吉方の仙石秀久や長宗我部元親の軍を破りました。
これにより秀吉は島津氏を問題視し、軍事力によって従わせる決断を下します。
九州征伐の陣容
天正14年12月25日、秀長は郡山から大坂に上って越年しました。
(秀吉と九州攻めについて相談のしたのかな・・・?)
年明けの天正15年(1587年)1月1日、秀吉は九州攻めの陣容を決定します。
先陣は宇喜多秀家で1月25日の出陣、秀長は第4隊として2月10日の出陣となり、秀吉自身は3月1日に出陣し九州上陸は3月28日となりました。
また、畿内守備として羽柴秀次、前田利家が留守役が担うなど、中央の安全保障も織り込まれました。
👉九州征伐は政権運営上の大規模行動であったことが分かります。
秀長の出陣
秀長は天正15年(1585年)2月10日に大和郡山城を出陣。
西国街道を進み、2月30日に長門長府(下関市)で毛利輝元、小早川隆景に出迎えられ、3月6日に九州に渡り、豊前小倉(北九州市)に布陣します。
▶大和郡山城(奈良県大和郡山市)

秀長は当初、豊臣軍の実質的な総指揮官としての役割を果たしましたが、軍事行動への指示は秀吉から出ていました。
👉秀長が裁量を持ちながらも、最終決定権は秀吉にあったことを意味しています。
島津氏の対応
島津義久は「戸次川の戦いはあくまで自衛のためで、秀吉に敵対する意図はなかった」とする弁明の書状を秀長や石田三成に送ります。
しかし、この書状が届いたのは秀長がすでに出陣したあとであり、状況を変えることはできませんでした。
👉島津氏は重要な判断や行動が遅れること傾向があり、それが不利に働いたともいえます。
日向侵攻
秀長は3月13日に小吉秀勝(秀吉の姉・瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟)が小倉に着陣したことを受けて、豊前馬ヶ岳(行橋市)、豊後へと進軍します。
豊後では、島津氏が府内に在陣していました。
先陣に大友義統と黒田孝高・蜂須賀家政、続いて毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、さらに宇喜多秀家らが続き、秀長勢が後詰として進軍します。

この状況に島津義弘(義久弟)は豊後からの徹底を決意。
軍勢を日向、肥後へ後退させ、義弘は義久のいる日向都於郡城へ3月20日に撤退しました。
秀吉は島津軍の後退を許さず、追撃して討ち取るように命じていました。
しかし、前線の黒田孝高が慎重な判断をしたため、追撃が十分に行われませんでした。
このことで秀吉は黒田を激しく叱責し、秀長に対しても再度進軍を命じたようです。
👉秀吉が戦局を主導したうえで、短期決戦で主導権を固めようとした意図がうかがえます。
秀吉の九州上陸 と 日向での秀長の戦闘
秀吉は3月28日に豊前小倉に到着、29日に馬ヶ城に着陣します。
まず岩石城を攻略、そのうえで島津方であった筑前国衆・秋月種実、種長父子を降ろした後、肥後方面から島津氏の領国・薩摩へ侵攻しています。
4月27日には薩摩出水城の降伏を受け入れ、同城に入っています。
日向でも本格的な戦闘が起こります。
秀長軍は4月6日に日向耳川で島津軍に勝利し、高城を包囲しました。
4月17日には高城救済のため島津家久・義弘が反撃を試みますが、小早川隆景、黒田孝高などの増援もあり、島津軍は敗北します。(根白坂の戦い)

👉これらの敗戦で島津氏は軍事的に完全に不利な立場に追い込まれました。
島津氏の降伏
島津義久の降伏
戦況が決定的になると、秀長は島津氏に降伏を勧告します。
島津義久はこれを受け入れ、21日に家老を秀長のもとに派遣して降伏の意思を伝えました。
こうして九州征伐は豊臣方の勝利に終わります。
秀吉の秀長への叱責
しかし、秀吉は「本新井は徹底的に攻めるべきだった」として、秀長が独断で降伏を受け入れたことを叱責しました。
👉秀吉が政治的・軍事的な主導権を強く握っていたことを、また秀長であっても例外ではなかったことを示しています。
島津義久の臣従
5月8日に川内泰平寺(薩摩川内市)において、島津義久は出家姿で秀吉に直接会い、正式に許されました。秀吉は島津氏の存続を認め、薩摩一国の領有を安堵します。
最終的に義弘も5月22日に正式降伏し、島津氏の服属が完了しました。
👉島津氏は豊臣政権の家臣として組み込まれることになりました。
九州分国
その後、秀吉は九州の国分(領地配分)を進め、豊前、豊後、日向、大隅の支配体制を再編します。この作業の実務を担ったのも秀長でした。
しかし、島津義弘の対応の遅れや現地勢力の抵抗などにより、国割はすぐには確定せず、問題は翌年まで持ち越されます。
👉秀長は責任者として対応を続けますが、島津氏側の態度に強い不満を抱くことになります。
まとめ
- 九州征伐は、秀吉が「秩序攪乱」とみなした島津氏を軍事討伐して、九州を豊臣政権に組み込む過程である。
- 秀長は前線の総指揮格となり、軍事指揮と降伏交渉を担った。
- 島津義久は書状で敵意否定を試みましたが、到着が遅く政治的効果は限定的でした
- 秀吉は作戦を主導し、黒田孝高を叱責するなど軍を統制しました。
- 耳川の勝利、高城包囲、根白坂合戦の豊臣勝利が島津降伏を決定づけた。
- 秀長が降伏を受け入れたことを、秀吉は「独断」として叱責し、赦免・講和の権限を自分に集中させた。
- 義久は赦免されて薩摩一国の安堵を得て、島津氏は滅亡ではなく服属大名として再編された。
- 戦後の国分(領地配分)は複雑で、島津氏や在地勢力の抵抗で確定は翌年まで長引いた。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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