人物 な行

内藤昌秀(昌豊)(ないとう まさひで(まさとよ))?-1575

甲斐の人。武田信玄につかえ、天文15年50騎をかかえる侍大将となり内藤を名のった。のち上野(群馬県)の箕輪城代、小荷駄(こにだ)奉行。天正3年5月21長篠の戦いで討ち死にした。
本性は工藤、通称は源左衛門。
   ▶内藤昌秀(昌豊)の墓(愛知県新城市)

中川清秀(なかがわ きよひで)1542-1583

はじめ池田勝正、のち織田信長に仕え、一族の荒木村重に属して摂津茨木城に拠る。
天正6年(1578年)村重が信長に背くと、信長に帰順して村重を攻め功をあげた。
天正10年(1582年)本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、山崎の戦では先鋒をつとめ明智勢を破った。
天正11年(1583年)4月賤ケ岳の戦で大岩山の砦に陣したが、柴田勝家の将・佐久間盛政の奇襲にあい討死した。

中川重政(なかがわ しげまさ) ?-?

織田信長に仕え、黒母衣衆に任じられる。永禄11年(1568年)9月の信長上洛以後は、京畿の所務担当者として明智光秀・木下秀吉・丹羽長秀らと連判状を頻繁に出している。永禄13年(1570年)に琵琶湖周辺の城に信長が六角義賢らの残党に備えて重臣を配置した際には安土を任されており、ようやく部隊指揮官の地位に昇ったものと思われる。

ところが、柴田勝家と領地が隣接しており、複雑に入り組んでいた利権をめぐって争い、弟の津田盛月が勝家側の代官を殺害したことから、信長の怒りに触れて弟と共に改易されたうえ、徳川家康の許に追放・蟄居処分に処された。この時、剃髪して土玄と号している。元気3年(1572年)12月、三方ヶ原戦いでは家康に従って武田信玄の軍勢と戦った。

天正元年(1573年)、信長から罪を許されて召還された。後に信長から安土城の城代に任じられたが、以前のような地位を取り戻すことはなく、以後、合戦などの表舞台に立つことはなかった。信長の死後は織田信雄に仕え、天正12年(1582年)の小牧・長久手の戦いでは信雄に従って犬山城を守備したが、池田恒興の攻撃に敗れた。その後の行方は不明。

夏目吉信(なつめ よしのぶ)1518-1573

永禄4年(1561年)、三河長沢城攻めで軍功を上げ、永禄5年(1562年)に板倉重定を攻めた三州八幡合戦(八幡村城)の際には、今川氏の攻撃で家康(元康)方が総崩れになった際、殿を務めて、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。後に家康から軍労を賞され備前長光作の脇差を賜った。
永禄6年(1563年)秋、三河一向一揆では、一揆側に加担し、野場城(六栗城との説も)に籠って松平家康(後の徳川家康)に敵対した。後に忠義の士であるとして、松平伊忠が家康に嘆願して正式に帰参を許された。同年7月3日、三河・遠江の郡代となる。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居だったが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のみねで打って奔らせた。家康を逃がすために、自らを家康と称し、十文字の槍を持ち、25騎を率いて武田勢の追手に斬りこみ奮戦。身代わりとなって戦死した。享年55。
後に、家康は本宿の法蔵寺に三方ヶ原戦死者の慰霊碑を建てさせ、吉信の忠烈に感じて「信誉徹忠居士」と刻んだ吉信の墓を建てた。

並河易家(なみかわ やすいえ)?-?

明智光秀の家臣。通称は兵庫介、後に掃部介。
山崎の戦いでは明智軍右翼先陣として子・八助と共に出陣した。山ノ手で、堀久太郎(堀秀政)、浅野弾正(浅野長政)父子等と激戦となり、妻木忠左衛門(妻木広忠)、波々伯部権頭、酒井孫左衛門、同與大夫等と共に、敵を追散した。500余人討取、300余人討死したという。其の後、討死にしたとも、生き延びて、秀吉より大坂で扶助を受け、摂津国で病死した、ともされている。
戦後、茶会に名を連ねた明智掃部という人物とは同一人物であるという説がある。

西尾吉次(にしお よしつぐ)1529-1606

享禄2年生まれ。吉良持広の子。織田信長が本能寺の変で自刃したおり、徳川家康の三河帰還の警固にあたる。
家康の関東入部にしたがい、天正18年武蔵原市(埼玉県)に5000石を領する。慶長7年美濃に7000石を加増され、武蔵原市藩主西尾家初代。1万2000石。慶長11年8月26日死去。78歳。

西郷局(にしこおりのつぼね)?-1606

西郡局は柏原鵜殿長忠(鵜殿氏支流)の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産んだ。天正18年(1590年)に家康が江戸城に移るとそれに従った。
慶長11年(1606年)伏見城にて急死した。法名は蓮葉院日浄。同日には幕府重鎮の榊原康政が死去しており、西郡局は池田輝政の岳母、康政は輝政の長男利隆の岳父と共に池田家縁者だったため、人々は不思議に思ったという。

仁科盛信(にしな もりのぶ)?-1582

武田信玄の5男。永禄4年(1561年)仁科家にはいる。
信玄の死後、兄の武田勝頼をたすけて信濃・高遠城をまもる。織田軍の攻撃をうけ、天正10年3月2日戦死した。

二条昭実(にじょう あきざね)1556-1619

父は二条晴良(はるよし)。母は貞敦(さだあつ)親王の王女。永禄13年従三位。天正13年関白を豊臣秀吉にゆずる。慶長10年准三宮(じゅさんぐう)。
江戸幕府成立後、禁中並公家御法度の制定に参画し、元和(げんな)元年ふたたび関白となった。従一位。元和5年7月14日死去。64歳。

丹羽長秀(にわ ながひで)1535-1585

織田信長に仕える。柴田勝家と並び称される勲功の臣で,浅井・朝倉との合戦に功績があり,近江佐和山を拝領して居城とした。長篠の戦には一翼の大将として軍功をあげ,翌1576年(天正4)惟住(これずみ)の称号を得た。本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀を討ち,ついで柴田勝家,佐久間信盛と戦った。戦後,秀吉より越前・若狭両国と加賀半国を与えられ,越前北ノ庄の城に住した。

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