「関ケ原の戦い」の関連史跡:本多忠勝陣跡

史跡

⑪ 本多忠勝陣跡

本多忠勝は、東の南宮山方面の西軍諸隊を牽制し、福島正則ら豊臣恩顧の武将と桃配山の徳川家康本隊の間に位置するこの地に、陣を置いたとされます。
忠勝は、三方ヶ原長篠の合戦に参加して、数々の功を上げた猛将でした。また、勇猛なだけではなく智略も備えた名将で、関ケ原の戦いでは、軍監として参戦していました。

本多忠勝は、開戦前こそ、この付近に陣を敷いたようですが、徳川家康の命を受けて、南宮山に布陣した毛利秀元が迂回してこないかと監視していました。
その為、関ヶ原の戦いが始まった午前中は、本多忠朝や共に従った桑山一直らも、戦闘にはあまり参加していなかったようです。
午後になり毛利秀元は来ないと判断すると、宇喜多秀家を横から攻撃したと言います。
そして、石田三成勢と戦いますが、島津義弘が中央突破して来ると、逃れる島津勢を追撃しました。

このように、本多忠勝は宇喜多秀家・石田三成・島津義弘の追撃と、関ヶ原を縦横無尽に移動して戦闘しており、その機動力や勇猛さを感じずさせます。

この功績により、慶長6年(1601年)に伊勢国桑名10万石に移され、旧領・大多喜は次男の本多忠朝に別家5万石で与えられました。
忠勝は、慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去。享年63。
臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原3441-67

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約600m
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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