① 長篠城
築城




戦国時代
長篠菅沼氏が徳川家康に服属していた元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められます。陥落は免れますが、菅沼総領家・田峯菅沼氏からの使者の説得を受け、菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈します。
元亀4年(1573年)、武田信玄の病が悪化し死去すると、その間隙、徳川家康は長篠城を攻めます。
天正元年8月(1573年)、城主・正貞は徳川軍に対して開城し、自らは退去し城に戻ることはありませんでした。
以後、長篠城は徳川家の城となり、徳川家康は武田軍の再侵攻に備えて、長篠城をさらに拡張し、防御力を高めました。(現在に残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。)
▶本丸の土居と堀

天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城の奪還を試みたことによって長篠の戦いが始まります。
天正4年(1576年)奥平信昌が新城城を築城し、長篠城は廃城になったとされます。








👉1929年(昭和4年)、長篠城の城跡一帯が国の史跡に指定。 その後、帯曲輪跡には「新城市立長篠城址史蹟保存館」が建設され、長篠の戦いの理解を助ける展示がされるようになりました。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(46番)に選定されています。
◆「鳥居強右衛門磔の碑」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の地
天正3年5月、長篠城は武田勝頼に取り囲まれ窮地に陥ります。その時、鳥居強右衛門が徳川氏への救援要請に志願。承諾を得て城に戻る途中、武田の兵に捕まります。嘘をつくことを拒否して磔となった強右衛門のエピソードと磔の碑について触れています。
◆「長篠の戦い」については、こちらもご覧ください。

徳川家康8 長篠の戦いの戦略と遠江平定への道のり
天正三年(1575)五月二十一日、奥三河の要衝・長篠城を巡る戦いが織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こります。織田・徳川軍を勝利に導いた戦略とは?戦後、信長は天下人への道を進み、家康は遠江へ領土拡大、勝頼は衰退していく過程を解説しています。
アクセス
住所:新城市長篠字市場22-1
クルマ🚙
新東名高速 新城ICより約2.3km
電車🚉
JR飯田線 長篠城駅から約600m




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