豊臣秀長 秀長誕生とその家族

豊臣秀長

豊臣(羽柴)秀長について書かれた史料は少ない。
彼が兄・秀吉の補佐役に徹し、彼自身が主役となる記録を残す機会が少なかったこと。
後継者や主要な子孫がいなかったこと。彼の生涯に特化した記録が継承されにくかったこと。
彼の死後、豊臣政権が短命で終わったこと等が一因と考えられます。
ここでは、彼が仕えた織田信長、豊臣秀吉に関連した出来事を通じて、豊臣秀長に触れています。

秀長の誕生と家族

秀長誕生

通説では・・・
豊臣秀長は、天文9年(1940年)3月2日に尾張国愛智郡中々村で、母「天瑞院」と父「筑阿弥」の間に生まれたとされています。

「小竹」(あだ名として)と呼ばれていたといわれますが、幼名は分かっていません。

秀長の家族

通説では、母の天瑞院は再婚で、前夫(弥右衛門)と死別し、再婚相手の筑阿弥との間に秀長が誕生したとされていました。
現在では、同父(弥右衛門と筑阿弥は同一人物)とする説が有力とされており、さらに父は織田大和守家に仕えた在村被官クラスの人物だったとされています。

その後、父は戦場での負傷や病などで死去(秀吉7歳、秀長4歳の時)し、働き手を失った秀吉・秀長の家は中々村で百姓を営むことが難しくなります。
そのため、彼らの生活は貧苦を極め、村人の世話になりながら生活していましたが、百姓身分からは凋落していったと考えられています。

天瑞院(「なか」ともいわれますが、史料での確認は出来ず、疑わしい)
永正14年(1517年)の生まれで、秀吉誕生は21歳の時、秀長誕生は24歳の時になります。
尾張国御器所村の出身とされ、御器所村の有力住人の娘であったと思われます。
(姉妹や従姉妹の嫁ぎ先は、苗字を持つ立場の、連雀商人であった杉原家次、中村で活動していた 
小出秀政や加藤清忠(清正の父)が確認されています)

皆様ご存じの、関白となり、天下統一を成し遂げ、豊臣政権を樹立した豊臣秀吉になります。

瑞龍院(「とも」とも言われますが、確かな史料で確認することはできません)
天文元年(1532年)の生まれで、秀吉と5歳、秀長と8歳の差になります。
尾張国海東郡乙之子村(愛知県あま市)の住人で鷹匠の手引きと「馬カシ」(馬貸し業)を営んでいた三好吉房(こちらの名前も確かな史料では確認できない)と結婚します。

👉羽柴秀次羽柴小吉秀勝の生母となり、また誕生時期から(瑞龍院は高齢となっていた)養子と考えられる秀保(秀長の養嗣子)を自身の子として育てました。

文禄4年(1595年)秀次が秀吉に切腹を命じられると出家し、善正寺(京都市左京区)、瑞竜寺(京都市上京区、のちに滋賀県近江八幡市に移転)を開きます。
寛永2年(1625年)4月24日、94歳で亡くなります

南明院(「朝日/旭」とも言われますが、またまた確かな史料で確認することはできません)
天文12年(1543年)に生まれます。
尾張国烏森(名古屋市中村区)の出身で秀吉に家臣として仕え、秀長の与力として活躍した副田甚兵衛尉と結婚(相手には諸説あり)したとされます。

その後、秀吉によって甚兵衛尉は但馬多伊城に配置されていました。しかし、本能寺の変の混乱の中で、蜂起した一揆に城を奪われたことで、秀吉に「怒り」に触れ、南明院と離縁させられました。
(通説のように徳川家康と結婚するために離縁させられてたのではありません)

小牧・長久手の合戦後、徳川家康が秀吉に従属するにあたり、家康が羽柴家との縁戚関係を求めると、秀吉はそれを受け入れ、天正14年(1586年)5月に家康の正室として嫁ぎます。
しかし、4年後の天正18年1月14日に48歳で亡くなります。

👉小牧・長久手の戦いについては
“小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?”
もご参照ください。

兄・秀吉の織田家士官

織田家への士官

話を元に戻すと、秀長が数え年で5、6歳の頃、兄は家を出て寺奉公に行きます。しかし、寺仕事はせず、戦いごっこにふけり、ご本尊の如来像を壊したりして寺を追い出されたようです。

秀長が12歳くらいの頃、突然兄は家に戻ってきて、「俺は武士になる。駿河に出て今川治部大輔義元様に仕えるんや」と宣言します。
しかし、今川氏に仕えたのは3年ほどで、その後は尾張に戻り、父の縁(父は織田大和守家に仕えた在村被官)から、永禄元年(1558年)9月に清州城の領主の織田信長に仕えることになったとされます。

👉永禄元年(1558年)頃、秀吉は尾張清州に戻り、織田信長に小者として仕えたと考えられて
  います。

この頃の織田家

この頃、信長は敵対する尾張岩倉城を10月に攻略して、織田伊勢守家を逐ったと思われ、さらに11月2日には敵対した弟・信成を殺害し、織田家を統一します。
翌年2月には将軍足利義輝との拝謁を果たし、同国を統治する国主として歩み始めました。

今川家との対立

織田家内部の対立に追われた信長は、駿河の今川義元と和睦を結んでいました。
しかし、尾張国東部の愛智郡鳴海・大高にまで勢力を拡大した義元の和睦を破棄し、同城の奪還に動いていきます。
この動きが桶狭間の戦いにつながっていきます。

今川時代の主君 松下加部兵衛尉之綱

秀吉が今川時代に仕えたのは、松下加部兵衛尉之綱という人物で遠江・頭陀寺城主でいたが、今川家の家臣の家臣という立場でした。
後年、秀吉が天下を取ると、徳川家康のもとで30貫に落ちぶれていた松下加部兵衛を探し出し、最終的に1万6千石の所領を与え、遠江・久野城主に就けます。
困窮の自分を拾い上げてくれた温情に報いたのです。

桶狭間の戦い

秀長の憂鬱

 永禄3年(1560年)春ごろから、百姓をしていた秀長の周辺にも合戦の噂が流れてきました。
今川勢が鳴海・大高の確保のため尾張に攻め込むというのです。
そうなると、尾張はその途上にあるので、秀長の村も戦場となり、田畑は荒らされ、強奪などの危険性もありました。

尾張の領主・織田信長は「うつけ者」と呼ばれていたので、織田家は滅ばされるか、臣従することになると噂されていました。
(この頃には「小一郎」を名乗っていたと考えられます)

桶狭間の戦い

しかし、ご存じの通り織田勢があっさりと勝ったのです。
5月19日の午後に、三河の桶狭間で休憩していた今川義元を、織田勢が打ち取ってしまったのです。
今川家を倒したことで織田家の権威が高まり、国内統治と治安が一段と良くなり、百姓たちにも多少の利益をもたらしました。

勝利した信長は尾張東部を奪還し、西三河にも進出。
永禄4年(1561年)2月頃には、松平元康(徳川家康)と和睦し、尾張東側での情勢回復を成し遂げます。

この頃、秀吉はまだ織田家家臣に列していない奉公人の立場にあり、この間の秀吉の活躍については史料で確認することはできません。

👉桶狭間の戦いについては
  “徳川家康 家康にとっての桶狭間の戦い”
 もご参照ください

秀長が史料に登場する時期について

蜂須賀小六、竹中半兵衛などは秀吉との出会いを語る物語が伝わっていますが、秀長の登場を伝える物語はありません。

秀長が初めて史料に登場するのは、秀吉が長浜城を築城した天正元年(1573年)頃とされ、この頃から秀吉の家臣団の一員として本格的な活動を始めたとも考えられています。
それまでの秀長の活動については、「よく分からない」というのが正直なところです。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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