羽柴秀長は天正8年(1580年)から但馬(兵庫県北部)の一部を支配しましたが、一国まるごとではなく、いくつかの郡を分担して支配する形でした。
秀長に但馬一国を任せることは、荷が重いうえに効率的ではないため、複数で分担することによって円滑に支配しようとしたと考えられます。
秀長が担当したのは、潮来、養父、七美、気多の四郡で、本拠地は竹田城でした。
他にも宮部継潤、木下昌利らが別の郡を担当していました。
ここでは、秀長の但馬支配について触れていきます。
但馬支配の分担
但馬国の支配は下記のように、郡を分担して行われました。
①羽柴秀長の支配:潮来、養父、七美、
気多の四郡で、本拠地は竹田城
②宮部継潤の支配:美含、城崎の2郡
③木下昌利の支配:出石郡
④二方郡:不明

秀長が発給した文書からわかる支配の内容
秀長が但馬国内で出した文書(判物)から、以下のような支配の実態が読み取れます。
①治安維持
・天正8年(1580年)5月4日
潮来郡山口郷の百姓に対し、秀長の家来が悪事を働いた働いた場合はとらえて報告する
よう命令。隠した場合は村ごと処罰すると警告。
また、「すべての命令は、秀長の判物で行われる」と定めています。
👉犯罪防止、治安維持に努めていたことが分かります。
👉判物:上位の立場にある者が発給した文書のうち、差出人の花押が押されたもの
これに対し、印判が付されたものを印判状(朱印状、黒印状)等と呼ぶ。
②人々の生業の保証
・天正8年5月15日、6月25日
気多郡、養父郡の住民に鮎漁の許可を出す。
👉地元の生業を保証し、生活の安定を図りました。
③土地争いの裁判
・天正9年(1581年)10月11日
気多郡馬庭村に、隣村の山田村との境界争いを裁定。
👉地域のトラブルを裁く、支配者としての役割を果たしていた。
④功績に対する恩賞
・年未詳
川を渡る手助けをした(伝承)住民に公事(税や労役)の免除を与えた。
👉功績に応じて報いる姿勢がみられます。
⑤戦後復興策
・年未詳 11月3日
戦火で人が離れた山口町に、還住してきた人が生活できるよう夫役(労働義務)を免除。
👉住民を呼び戻すための政策。秀吉も同様の復興政策を行いました。
出石郡赤花村の検地
天正8年(1580年)8月、赤花村で検地(田畑の面積を測り、税を決める作業)が行われ、検地帳が作られました。
検地の目的は村落の年貢負担を明確化し、戦後復興後の安定的な徴税基盤を整備することにありました。
赤花村検地の特徴
・360歩 = 1反を採用
・畑の扱いはまだ未熟であった
・測量はさほど厳密に実測されていない
・検地帳の作成者は秀吉家臣
出石郡は木下昌利の担当でしたが、秀長が自分の領地として検地したのか、秀吉の代理として実施したのか、複数の説があります。
いずれにせよ、秀長は検地によって税収を確保し、家臣に知行(領地)を与える体制を整えたことが分かります。
実際、秀長家臣・上坂意信に300石を与えた文書が残っています。
但馬の一揆と支配の困難さ
天正8年(1580年)から七美郡小代で一揆が発生し、翌9年に秀吉が出陣してようやく鎮圧されました。
この戦いで藤堂高虎が活躍し、300石から3,000石に加増されました。
👉秀長の支配は必ずしも順調ではなく、地元勢力の抵抗が続いていたことが分かります。
秀長の役割と織田政権の支配方針
秀長の役割
このように但馬支配は秀長が中心となって進められました。
秀吉自身が直接統治した形跡はなく、秀長にほぼ全権を委任していたと考えられます。
秀長が領国支配・軍事を担う「羽柴家の執政者」として活躍できたのは
・秀吉の弟であること
・実務能力が高かったこと
が大きな理由となります。
織田政権の支配方針
織田政権の領国支配の政策は、
征服地の戦後復興 → 住民の生活を戻す → 検地→ 税制の整備 → 次の戦争準備
という流れになっていたと思われます。
家臣たちは各地で独自の判断をしたものの、基本的には織田家方針にしたがって領国支配を行いました。
但馬国でも、秀長ら城代級の家臣がこの方針に沿って支配を展開しており、地域当時の分権化と中央方針の一致が同時にみられる点は、織田政権の領国支配の特徴をよく示しています。
まとめ
・秀長は但馬国の一部(四郡)を担当し、治安維持、生業の保障、裁判、恩賞など多方面で
支配を行いました。
・検地を通して税制を整え、家臣へ知行を与える基盤を作りました。
・但馬では一揆が続き、支配は必ずしも順調ではなかった。
・但馬統治は秀吉ではなく秀長が中心であり、秀長は羽柴家の実質的な執政者として活躍した。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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