豊臣秀長 秀長の但馬侵攻と別所長治・荒木村重の反乱

豊臣秀長

秀長が歴史の舞台で大きく活躍し始めるのは、天正5年(1577年)の「但馬侵攻」からです。
秀長はこの時初めて「一軍の大将」として独立した軍勢を指揮し、秀吉軍とは別に但馬に進軍したことに特色があります。
これは秀長の立場が、単なる補佐役から本格的な武将へと成長したことを表しています。

ここではこれらのことについて触れていきます。

竹田城・城代として支配を開始

但馬侵攻

天正5年(1577年)11月に秀長は播磨国(兵庫県南西部)と但馬国(兵庫県北部)の国境に位置する真弓峠を越えて但馬国に進軍し、岩州城・竹田城を次々と落とします。
竹田城を修築した後、自ら城代(城を管理する責任者)となり、但馬支配の中心を担いました。

謀反発生

しかし、秀吉の背後では大きなトラブルが起きます。
それは翌年発生する播磨の別所長治と摂津(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の荒木村重の反乱です。
この変乱は秀吉・秀長の軍事戦略に大きな影響を及ぼしました

別所長治の反乱 ー 「三木合戦」

別所長治の謀反

別所長治は当初、秀吉に協力していましたが、城破却をめぐって対立が生じます。
さらに、反織田勢力となっていた足利義昭からの働きかけもあり、天正6年(1578年)2月に毛利氏へ味方して反乱を起こします。

長治は三木城にこもり、約7,500人もの兵士・家族・門徒(寺の信者)を巻き込んだ大規模な籠城戦になります。
秀吉は「兵糧攻め」(食料を絶ち、戦わずに弱らせる戦法)を選び、城の周囲に付城を築いて徹底包囲しました。

宇喜多直家の従属

この間の天正7年(1579年)9月に秀吉は備前(岡山県東部)の有力武将・宇喜多直家を独断で味方につけ、信長に叱責されるという事件も起こります。
(信長は10月に直家の従属を認めます)
これ以降、秀吉は信長への報告を重視して行うようになったとされます。

三木合戦の終結

包囲は1年10ヶ月続き、ついに三木城の食料が尽き、天正8年(1580年)1月に長治は一族とともに切腹しました。
城兵は除名されたという史料が残る一方、同時代の羽柴方の史料には、対象を明示せず城内で一定人数を殺害したとする記述があり、戦後処置は実態不明となっています。

その後、秀吉は4月から5月にかけて播磨・但馬の両国を平定し、播磨姫路城を居城に定めて播磨・但馬両国の支配を始めていきます。

👉三木合戦の最中には、秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛が病死するなど、大きな損失も
  ありました。

👉この時期に秀吉は小寺孝高(黒田官兵衛)に対し「弟の秀長同然に思っている」と書状で伝える
  など、秀長の政治的・軍事的地位が特別なものであったことが分かります。

荒木村重の反乱

反乱の理由

天正6年(1578年)10月、摂津の有力武将・荒木村重も有岡城で信長に反旗を翻します。
村重は元々信長に忠実で、摂津の支配を任されていました。
しかし、秀吉が中国方面の総司令官になると村重の地位が下がったように感じ、将来を不安視したと言われています。

👉一度は説得され翻意しますが、結局有岡城に戻ります

孤立

村重は足利義昭・毛利氏・本願寺と通じ、再起を図りますが、11月に木津川口で毛利水軍が敗北し、高山右近中川清秀ら摂津の有力武将も相次いで秀吉に降伏。村重は孤立します。

秀吉は説得のため、旧知の黒田孝高(官兵衛)を使者に送りますが、村重は孝高を幽閉してしまいます。のちに孝高は救出・復帰します。

逃亡

天正7年(1579年)9月に村重は有岡城を捨て、尼崎城→花隈城へと移動しますが、戦況が好転することはなく、最終的には毛利氏のもとに逃れ、隠居生活に入ったとされます。

天正8年の「再びの但馬侵攻」と平定

三木・有岡の混乱で但馬でも反織田の反乱があり、竹田城は奪われていました。
そこで天正8年(1580年)4月、秀長は再び信長の命令を受けて、約6,400の兵を率いて但馬へ出陣します。

竹田城はすぐに降伏し、続いて5月16日には但馬守護・山名氏の本城である有子山城も落城。
山名祐豊は間もなく病死し、子の氏政(堯熙)は因幡に逃走しました。
こうして但馬は再び秀長の手で平定され、秀長は総大将として重要な成果を挙げました。

竹田城のその後

秀吉は竹田城を秀長、豊岡城を宮部継潤、有子山城を木下昌利に任せましたが、のちに秀吉の本拠が姫路から畿内に移ると、秀長も姫路へ移されます。
その後、竹田城は秀長の家臣・桑山重晴が引き継ぎ、さらに後に斎村政広が城主となり、現在見られる竹田城の姿を完成させました。

👉桑山重晴はのちに秀長が紀伊・和泉両国へと国替えになって和歌山城に転封になるとこれに従
  い、秀長が大和国を加増されて大和郡山城を与えられると、代わりに和歌山城主となります。

まとめ

この時期は秀吉勢力が大きく成長する重要な段階で
 ・秀長は軍の総大将として力を発揮
 ・別所長治、荒木村重の反乱は秀吉の背後を揺るがす大事件
 ・秀長は再び但馬を平定して、地方統治の中心となる
という流れが見られます。
秀長の冷静な指揮と支配能力は、秀吉が天下統一へ進むうえで欠かせないものとなっていきます。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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