秀吉の関白就任とその背景
天正13年(1585年)7月11日、羽柴秀吉は朝廷の最高位の一つである関白に就任します。
就任への背景
関白とは、天皇を補佐して政治を行う役職で、本来は五摂家(一条、二条、九条、近衛、鷹司)と呼ばれる限られた公家だけが就くことのできるものでした。
そのため、武士である秀吉が関白になることは、中世以来の政治秩序を大きく転換させる出来事でした。
当時、関白職を巡って二条昭実と近衛信輔の間に対立がありました。
秀吉はこの状況を巧みに利用します。
当初、秀吉は右大臣就任が予定されていましたが、織田信長が右大臣在任中に非業の死を遂げたことから、「縁起が悪い」としてこれを嫌い、より上位の左大臣就任を望みました。
👉天正13年(1585年)時点での官位と昇進予定は以下になります。
関 白:二条昭実 → 1年程度の在籍ののちに辞任
左大臣:近衛信輔 → 関白
右大臣:菊亭晴李 → 辞任
内大臣:羽柴秀吉 → 右大臣
関白就任
そこで秀吉は、近衛信輔の父・近衛前久の猶子(仮の養子)となり、形式上は藤原氏の一員となりました。
そして「自分が先に関白に就き、後に信輔が継ぐ」という約束を取り付け、秀吉は関白に就任することに成功したのです。
👉これは武力だけでなく、朝廷の制度や慣習を巧み利用した秀吉の政治手腕をよく示しています。
豊臣姓への改姓の意味
豊臣姓を下賜
秀吉は関白就任後の天正13年9月、正親町天皇から「豊臣」という姓を下賜されます。
それまで秀吉は、本姓として「平」や「藤原」を名乗っていましたが、藤原姓のままでは、既存の藤原氏の秩序の中に組み込まれてしまい。政治的な自立が難しくなるという問題がありました。
本姓:豊臣、苗字:羽柴
そこから秀吉は、新たに「豊臣」という独自の姓を与えられることで、既存の貴族社会から一定の距離を保ちつつ、朝廷の正式な権威を手に入れたのです。
「豊臣」はあくまで本姓であり、日常的に使う苗字はしばらくの間「羽柴」のままでした。
秀長も、のちに豊臣姓が与えられましたが。文章上では「羽柴大納言豊臣朝臣秀長」と羽柴と豊臣が機能的に使い分けられていたことが分かります。
👉本姓とは天皇から下賜されてたもので、「源平藤橘」がよく知られています。
ただし、家系が枝分かれし、本姓を名乗る者が多くなると紛らわしくなるので、
それぞれの本拠の地名などを苗字としました。
例)室町幕府将軍家の足利氏の場合
→清和源氏・源義家の子孫ですが、下野国足利荘を本拠とし地名の「足利」を
苗字としました。
本姓は位記(位階を受ける時に出す文書)が作成される際などに用いられました。
例)足利義満の場合は「源義満」と書かれます。(普段は足利義満)
→平清盛、源頼朝は本姓が嫡流に一致していたので、そのまま用いられました。
越中・佐々成政征伐
征伐への経緯
天正13年(1885年)7月15日に関白就任の諸儀式を終えた秀吉は、17日に越中の佐々成政の討伐を決め、出陣を8月4日と定めます。
佐々成政は、もと織田信長家臣で秀吉と同僚の立場でした。
賤ケ岳の戦いでは柴田勝家についたため秀吉と敵対しましたが、敗戦後はいったん秀吉に降伏し、越中の支配を認められていました。
しかし、小牧・長久手の戦いで徳川家康に接近し、再び秀吉に反抗する姿勢を示していました。
これにより、秀吉は成政を危険な存在とみなし、討伐を決断しました。
戦況
8月4日、秀吉は織田信雄を大将として先勢を出発させ、自身は8日に出陣します。
前田利家の軍勢が先陣を切り、信雄の軍勢も各城を攻略したことで成政は敗北を悟り、降伏しました。
8月26日、成政は剃髪して秀吉のもとに出向き、最終的に越中の一部だけを与えられ、権力を大きく失いました。
金森長近には飛騨国の平定を進めさせ、
8月末に平定します。
▶金森長近像(越前大野城)

秀長の大和拝領と天下統一政策
秀長大和拝領
四国・越中平定後、秀吉は畿内周辺の国替えを実施します。
その中で、秀長は大和国(奈良県)を与えられます。
大和は古くから都に近い重要な地域であり、そこを秀長に任せたことは、秀吉が身内を信頼し、政権基盤を固めようとした表れといえます。

また、前田利家の子・利長を越中に移すなど、有力大名を適材適所に配置しました。
こうした政策により、秀吉は畿内周辺を安定させ、全国支配を進めていきます。
惣無事
秀吉は最終的に「惣無事」と呼ばれる方針を打ち出し、私的な戦争を禁止し、中央の権力のもとで全国を統一していきました。
これは戦国時代の終結を象徴する政策でした。
まとめ
- 秀吉が武士として関白に就任したことは、武家権力が朝廷制度を包み込む転換期となった。
- 「豊臣」という本姓を与えられたことは、朝廷の正統性と政治的自立の獲得を意味した。
- 佐々政成征伐は、北陸支配と対徳川政策を安定させるための軍事行動であった。
- 秀長の大和拝領と国替えは、政権中枢の安定化を目的とした政策であった。
- 惣無事令によって、秀吉政権は戦国秩序を終わらせ、統一国家形成へ進んだ。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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