豊臣秀長 秀吉の播磨侵攻

豊臣秀長

秀吉が播磨侵攻の大将として動き出します。
順調に播磨侵攻を進めた秀吉でしたが、毛利氏が反撃に出てきます。

反信長勢力の動向

上杉謙信との関係

織田信長上杉謙信は、元亀3年(1572年)10月の武田信玄の西上作戦に伴い、軍事協力を目的とした同盟を結んでいました。

その後、謙信は信長との同盟を破棄し、将軍・義昭を中心とした反信長連合に加わります。
そして、天正4年(1576年)8月に越中の敵対勢力を討つと、能登へ進軍。
七尾城の攻略を残すのみとなっていました。

信長は能登・加賀での勢力維持のため、8月8日に柴田勝家を大将とする軍勢を派遣します。
秀吉も同行していましたが、今後の行動をめぐって勝家と対立。
信長の許しを得ずに勝手に帰陣していました。

👉勝手に帰陣した秀吉は信長の逆鱗に触れ、しばらく長浜城で謹慎していました。

松永久秀の謀反

8月17日には摂津国大坂天王寺の砦を守備していた松永久秀・久通父子が信長に謀反し、居城の信貴山城に籠城します。

9月に信長は嫡男・信忠を総大将とした軍勢を派遣します。
(その中には信長の許しを得たと思われる秀吉も参加していました。
織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ、自害します。

👉平蜘蛛:正式名称は古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)
      松永久秀が所有していた茶釜で、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたこと
      から、「平蜘蛛釜」の名が付けられた。
      信長から幾度も所望されましたが断っています。

毛利氏との対立の背景

信長と毛利氏は、三好方勢力である備前の浦上宗景に共に対立していたことから、軍事協力を含む友好的な関係にありました。

しかし、織田・毛利両家の勢力圏の境目で活動していた浦上宗景宇喜多直家らの動き(宗景は織田方、直家は毛利方に就く)と、義昭の備後鞆へ下向した(反信長の義昭を毛利氏が匿った)ことが両者の関係を悪化させ、敵対し、開戦に及びます。

秀吉中国方面司令官に

第1次木津川の戦い

天正4年4月、将軍・義昭は毛利輝元、上杉謙信、武田勝頼石山本願寺らとの反信長活動を活発化させ、毛利氏が有利な状況を作りつつありました。

7月には摂津木津川にて毛利水軍が、石山本願寺への兵糧補給のため織田軍と対戦。
織田軍を撃破します。(第1次木津川の戦い)
これを契機に両家は戦争に突入します。

天正5年4月、毛利軍は海陸から播磨へ侵攻、織田方の播磨国衆への攻撃を試みます。

織田家の対応

5月14日、播磨の国衆小寺政職は毛利勢への攻撃を行います。重臣の小寺(黒田)孝高(黒田官兵衛)の活躍により、勝利を収めます。
そして、孝高は秀吉に近づいていきます。

そして、秀吉はこれまでの毛利家との外交交渉の実績も考慮され、織田政権における中国方面の攻略を任された「司令官」となります。

👉いよいよ秀吉が大将として動き出します。

秀吉の播磨侵攻

天正5年(1577年)10月、秀吉は播磨国に進出します。
秀吉は小寺孝高の姫路城を本拠として、播磨(兵庫県南西部)、但馬(兵庫県北部)の攻略を目指し、転戦していきます。

播磨では、龍野城の赤松広英、三木城の別所長治から人質を取ると、11月26日に竹中重治(信長から与力として配属されていた)、小寺孝高の軍勢を派遣して福原城、上月城を攻略します。
(第1次上月城の戦い)

第1次上月城の戦い

上月城は播磨・美作(岡山県北部)・備前(岡山県南東部)の三国の国境に位置する堅牢な山城で、毛利方の赤松政範および宇喜多直家が守り、毛利勢力圏の東方における最前線になっていました。

秀吉は12月3日に城を陥落させます。そして、織田方の尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿之介)などの尼子再興軍に城の防衛を任せます。

こうして、秀吉は播磨一国をわずか2ヶ月で手中に収めます。

👉秀吉、すごいスピードで播磨を制圧します。しかし・・・このままでは終わりません

第2次上月城の戦い

別所長治の離反と毛利氏の東進

天正6年(1578年)2月、播磨の別所長治が織田方から離反し、三木城に立て籠るという事件が起こります。

長治の離反に連動するように、毛利氏は上月城奪回作戦を決定。
4月15日、総大将・毛利輝元は備中松山城に陣を構え、吉川元春小早川隆景も上月城攻略に向かいます。
毛利・村上水軍も播磨灘を封鎖、総動員兵力は3万以上とされ、羽柴軍をはるかに凌ぐ規模でした。(宇喜多直家は自らは出陣せず、弟の忠家を派遣しました)

👉毛利輝元と別所長治は連動していたのでしょうね

秀吉の対応

秀吉は信長に援軍を要請すると、摂津の荒木村重の軍が向けられました。
秀吉は長治が籠る三木城への攻撃を継続しながら、4月下旬に尼子軍支援のために上月城東側の高倉山に進出します。

4月18日、毛利勢は堀や柵を設けて何重にも城を取り囲みます。
圧倒的な兵力を持つ毛利軍でしたが、積極的に攻撃に出ようとはせず、兵糧攻めの方針をとりました。

尼子氏の滅亡

信長の思惑

5月、羽柴軍には織田信忠を総大将とした滝川一益佐久間信盛明智光秀丹羽長秀細川藤孝らの援軍が到着します。

しかし、信長の意図は三木城の攻略と毛利軍の足止めであり、神吉城、志方城、高砂城といった三木城の支城攻略に力を注ぎ、上月城への直接的な攻撃は行いませんでした。

👉秀吉に思惑(尼子氏救援)とはちょっと、違っていましたね

このため、秀吉も上月城に手を出すことはできず、後詰の見込みがない尼子軍は絶望的な状況に立たされます。

尼子氏の滅亡

再度、秀吉は上洛までして信長の指示を仰ぎますが、あくまで播磨平定を優先する信長の方針は変わらず、上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われました。

秀吉は尼子軍に上月城の放棄・脱出を促しますが、尼子主従はこれを黙殺、徹底抗戦を選んだとされます。

7月1日、尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、7月3位に尼子勝久、尼子氏久、尼子通久、そして勝久嫡男・豊若丸らが自刃。
山中幸盛も捕虜となり、備後国鞆に送られる途上、備中国成羽で殺害されました。

こうして、70日に及んだ上月城攻防戦は幕を閉じ、武門としての尼子氏は完全に滅亡しました。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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