四国で勢力を拡大していた長宗我部元親は賤ケ岳の戦いでは柴田勝家、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康への接近を図り、勢力の維持・拡大を図っていました。しかし、両合戦に勝利し主導権を握った秀吉との対立は決定的なものになっていました。総大将として四国征伐に向かった秀長の行動を中心に合戦中の出来事も含めて触れています。
長宗我部元親と中央政権(信長・秀吉)の関係変化
信長との関係
戦国後期における長宗我部元親の台頭は、地方大名が地域統合を進める典型的な例と捉えることができます。
元親は土佐を基盤に阿波・讃岐・伊予へと進出し、四国統一を視野に入れた権力形成を進めていました。
織田信長は当初、この動きを「切り取り次第」という考えを示していましたが、天正8年(1580年)頃から方針を転換します。
これは信長が全国支配を視野に入れる段階に入り、地方権力の自立と拡張を押さえる必要に迫られたためと考えられ。天正10年(1582年)には四国出兵が計画されていました。 ▶織田信長(清須市)

👉天正8年の主な出来事:石山合戦終結、秀吉の播磨平定、秀長の但馬平定、荒木村重の敗北 等
秀吉の播磨侵攻については こちら から
秀長の但馬平定、荒木村重の敗北については こちら から
合わせてご覧ください。
秀吉との対立
本能寺の変後、中央政局は一時的に不安定になります。
元親はその隙を突き、柴田勝家や徳川家康陣営への接近を図り、独自の生存戦略を模索します。
しかし、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに勝利して政権の主導権を握ったのは秀吉でした。
元親のこうした動きは結果的に秀吉政権との対立を決定的なものとしました。


※「賤ケ岳の戦い」についてはこちらも合わせてご参照ください。
※「小牧・長久手の戦い」については
秀吉視点からの戦いはこちら、家康視点の戦いはこちらも合わせてご参照ください。
秀吉による四国征伐決断の背景
毛利氏との約束
天正13年(1585年)、紀州征伐を終えた秀吉は、四国で勢力を拡大する元親を放置できないと判断します。
なせなら、秀吉はこの年の2月に確定した毛利氏との領土交渉で、小早川隆景に伊予国を与えることを約束していたのです。
👉これは秀吉が四国を政権に組込む構想を持ち、外交上も既定路線になっていたことを示します。
※秀吉・秀長の「紀州征伐」についてはこちらも合わせてご参照ください。
出陣を決意
秀吉は4月14日に四国攻めを表明、5月4日に6月3日の出陣を決めます。
これに対して、元親は阿波・讃岐返上と人質の提出による和睦を申し出ますが、秀吉は「土佐一国安堵」という限定的な存続のみを提示します。
この条件は、単なる領土調整ではなく、長宗我部氏を地域覇権者から従属大名へ転換させるためでした。
四国征伐の軍事編成と指揮体制
総大将・秀長
四国征伐の特徴は、秀吉自身が前面に立たず、秀長を総大将にした点にあります。
秀長には兵力動員(秀吉直臣も秀長の軍事指揮下に置かれました)、船舶徴発(紀伊・和泉における秀吉自身の所領であっても、軍事行動での船の徴発が認められた)など広範な権限が与えられており、彼が「代理執政的存在」として機能していたことが分かります。
また、甥の秀次を副将とした布陣も、豊臣政権内部での後継育成と軍事経験付与の意味を持っていました。
出陣
秀吉の病気により出陣は6月16日に延期されたものの、秀長は3万の軍勢を率いて和歌山城を出陣、淡路洲本(洲本市)で同じく3万の軍勢を率いた秀次と合流します。
さらに伊予方面には小早川隆景・吉川元春、讃岐方面には宇喜多秀家・黒田孝高らが進軍し、四国は多方面から包囲されました。
👉これは単なる制圧戦ではなく、戦後の領土再編を見据えた軍事行動でした。
戦局の推移と秀長の政治判断
戦局の停滞
秀長・秀次軍は6月22日に阿波鳴門(鳴門市)に上陸後、木津城攻略に時間を要したことで、7月3日に秀吉の出陣が予定されましたが、秀長は出陣延期を要請します。
「まだ十分な成果をあげていないこの時点で、秀吉が出陣すると秀長の力量不足ということになる。そして、そのことは秀吉の威光を少なくし、秀長にとっても「当座の恥辱」をうけることにななる。そのため出陣の延期を要請する。
そうしてくれれば秀長は一層忠勤に励み、戦功をあげることができたら、それは「一世の大慶」すなわち障害の喜びである」と伝えました。
👉ここで注目すべきは、秀長が自らの軍事的成果と秀吉の権威を一体のもののとして捉えていた点です。
秀吉はこの要請を受け入れ、四国戦線の実質的な全権を秀長に委ねました。
その後、秀吉は越中の佐々成政の討伐に専念していきます。
豊臣勢の盛り返し
その後、7月5日には木津城が陥落し、阿波・讃岐・伊予の各戦線で豊臣方が優位を確立すると、長宗我部氏の劣勢は明らかになっていきました。
👉ここでは、戦闘そのものよりも包囲と心理的圧迫が重要な役割を果たしました。
降伏交渉と四国支配の再編
元親の降伏
7月25日に秀長は和睦交渉に踏み切り、「土佐一国安堵・人質提出」という条件が提示され、元親はすべての条件を受け入れて降伏します。
四国再編
秀吉はこれを承認しつつ、四国の大名配置を明確に再編します。
阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景に与えられ、四国は複数大名による分割支配体制へ移行しました。
👉この処置は、在地勢力の温存と統制を両立させる秀吉政権特有の支配手法を示してします。
長宗我部氏も滅亡を免れましたが、政治的自立性は大きく制限されました。
服属の完成と秀長の役割
元親の服属と取次としての秀長
天正13年(1585年)10月、元親は京都で秀吉に謁見し、ここで長宗我部氏の豊臣政権への従属が正式に確定しました。
この過程を取り仕切ったのが秀長であり、彼は以後も諸大名の「取次役」として、豊臣政権の統合を支える存在となっていきます。
まとめ
- 長宗我部元親の四国統一は、織田・豊臣政権の中央集権化と衝突した。
- 四国征伐は、秀吉による全国支配体制確立の一環として実施された。
- 羽柴秀長は軍事・政治の両面で全権的役割を担い、政権運営の中核を成した。
- 四国は分割統治され、長宗我部氏は従属大名として存続した。
- 四国征伐は、豊臣政権の「武力+和睦」による統合政策を象徴する事例である。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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