山崎の戦いとは何か
山崎の戦いは、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、すぐに中国地方から引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉との戦いになります。
この戦いは、天下の後継者争いではなく、織田政権に中で誰が主導権を握るかを決める戦いでした。
明智光秀は信長を討ったものの、織田家中において正式な後継者として承認されておらず、一方の羽柴秀吉は「信長の弔い合戦」を掲げることで、政治的正統性を確保した状態で軍事行動を展開しました。
👉光秀の政権は「三日天下」と呼ばれていますが、実際には11日間で、山崎の戦いで敗れた
ことで終わります。
秀吉側の動き
天正10年(1582年)6月12日、備中高松城から戻った(中国大返し)は池田恒興、中川清秀、高山右近から摂津衆と合流しました。
そして、山城国の山崎(現在の京都府大山崎町)に軍を進めます。
翌13日に富田(高槻市)で摂津大坂に在陣していた織田信孝、丹羽長秀と合流すると、秀吉も山崎に進軍しました。
👉形式上の総大将は織田信孝で、秀吉はその家臣という立場でした。
これは「信長の敵を討つ正当な戦い(弔い合戦)」とするためでした。
👉羽柴秀長や、黒田官兵衛(孝高)も参戦し、重要な地点である天王山に陣を
置きました。
(地形を最大限に活かす布陣を取ったことになります)
光秀側の動き
光秀は本能寺の変の後、まずは京都の治安を守り、その後近江国(滋賀県)を押さえようとしました。
これは、居城の坂本城や安土城を守り、北陸方面に強大な勢力を持つ柴田勝家に備えるためでした。
しかし、光秀は有力武将を味方につけることに失敗します。
細川藤孝・忠興父子や筒井順慶といった有力武将が参戦を拒否、あるいは秀吉側へ転じたことで、光秀は孤立を深めていくことになります。
👉結果として、秀吉の進軍が予想以上に早く、光秀は十分な準備ができないまま、兵力で2~3倍
の差がある不利な状況で戦うことになります。
両軍の対陣と地形
両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで向かい合いました。
山崎周辺は沼地が多く、軍勢が通れる道は天王山と沼地の間の狭い場所しかありませんでした。
光秀はこの地形をして、防衛に有利な位置に陣取りましたが、
秀吉は天王山の確保と部隊の機動的運用によって、地理的制約を逆に利用しました。
天正10年(1582年)6月13日夕方、戦いが始まります

👉秀長は天王山山麓に黒田らと布陣。
中川・高山両隊の側面を突くべく、天王山中腹を進撃してきた松田政近、並河掃部両隊と
交戦し、攻防が続きました。
戦いの経過
はじめは明智軍が攻勢にでて、秀吉側は苦戦しますが、持ちこたえていました。
その後、池田恒興、加藤光泰らの部隊が川を渡って奇襲を行い、明智軍の側面を攻撃しました。
これによって戦局は一気に秀吉側に傾き、明智軍は次第に崩れていきます。
光秀は勝龍寺城へ退却しますが、兵の逃亡が相次ぎ、軍はほとんど崩壊しました。
一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まりました。
明智家の最後
明智光秀の最後
光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本城へ逃げる途中の14日に、小栗栖(京都市伏見区)で農民の落ち武者狩りに遭い。
・竹槍で殺された
・深手を負って自害した
など諸説ありますが、6月14日に死亡したと伝えられています。
その首は秀吉軍に渡り、京都の本能寺、次いで粟田口で晒されました。
明智一族の滅亡とその後
光秀の死後も、秀吉は明智方を徹底的に討ちました。
・明智秀満は堀秀政に追い詰められ、坂本城で光秀の妻子を殺害したのちに自害
・中川秀政、高山右近両隊は丹波亀山城に向かい、光秀の息子・光慶を自害させ、
城を占拠
ここに明智氏は僧籍ににいた者などを除いて滅びます。
その後、秀吉は近江・美濃・尾張を平定して清洲城に入り、織田家の後継者である三法師(信長の孫)を中心とする体制づくりを進めます。
これが後の清須会議へとつながっていきます。
まとめ
- 山崎の戦いは、本能寺の変後の天下人決定戦ではなく、織田政権内の主導権争いであった。
- 秀吉は素早い行動で「弔い合戦」という政治的正統性を確保して、多くの味方を得て
戦いを有利に進めた。 - 光秀は同盟形成に失敗して軍事力・政治力の両面で孤立し、兵力差・地形利用・起動戦
(奇襲)が勝敗を分けた。 - 明智光秀は敗走中に命を落とし、明智氏は滅亡。秀吉が織田家中の実験を掌握しました。
この戦いをきっかけに、秀吉は天下人の道を大きく進むことになりました。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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