小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))ののち、織田信雄が秀吉に臣従したことは、秀吉が畿内支配を事実上完成させ、全国統一へと進む転機となりました。
次に秀吉は信雄に味方した勢力の鎮圧を進めていきます。
具体的には雑賀一揆と紀伊根来寺、四国の長宗我部元親、越中の佐々政成、そして徳川家康。
まず、和泉・紀伊への侵攻が行われました。
雑賀一揆は、紀伊国雑賀荘を中心とする地域ごとの土豪が結合した地域連合体であり、特定の大名に属しない強い自治性を持っていたことに特徴がありました。
彼らは鉄砲を大量に保有し、軍事的にも高い戦闘力を誇りました。また、構成員には浄土真宗門徒のみならず非門徒も多く含まれ、宗教的一揆というより、在地領主の利害に基づいた政治的・軍事的共同体として理解する必要があります。
同様に、紀伊根来寺も僧兵を擁する宗教勢力であると同時に、在地権益を有する地域権力でした。
織田信長の紀州征伐
織田信長の時代において、これらの勢力は石山本願寺と連携し、反織田勢力の一翼を担いました。しかし信長は、徹底した軍事行動と並行して懐柔策を展開し、雑賀衆内部に分断を生じさせました。
👉信長は、天正5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち三組(社家郡、中郡、南郡)を寝返らせることに成功しています。
その結果、雑賀一揆は信長派と反信長派に分裂し、内部抗争に発展します。
👉天正10年(1582年)1月、鈴木重秀(信長派)と土橋若太夫(反信長派)の間で対立があり重秀が若太夫を殺害するという事件が起こります。
土橋春継(若太夫の子)らは鈴木重秀らの勢力と戦いますが、信長が軍勢を派遣して春継らは雑賀から追い払われることになりました。

本能の変後には、反信長派が主導権を回復し、根来寺や四国の長宗我部元親と結びつきながら、台頭する秀吉への対抗姿勢を強めていきました。
秀吉の和泉・紀伊侵攻と制圧
こうしたなか、秀吉は天正13年3月(1585年)に和泉・紀伊へ大規模な侵攻を開始します。
👉3月20日、羽柴秀次を大将とした先陣が出陣。
21日には秀吉が出陣し、秀長はそれに従軍し、副将を務めたとされます。
まず和泉国を迅速に制圧し、続いて根来寺・粉河寺を焼き討ちして、宗教勢力の軍事的・象徴的基盤を破壊。
24日に雑賀に兵を進めると土橋春継は逃亡。さらに雑賀衆の中核拠点であった大田城を水攻めによって4月23日に攻略し、在地武装勢力の自立性を壊滅させました。
👉秀吉は25日に帰陣し、26日に大阪城に戻りました。
👉紀伊南部(牟婁郡など)には未制圧地域が残され、豊臣政権の支配は段階的に浸透していくこと
になります。
この戦いによって、紀伊南部の一部を除き、秀吉は和泉・紀伊の大部分を支配下に置くことに成功するとともに、旧来の「惣国一揆」的支配構造を解体する意図を明確に示すものでした。
秀長 和泉・紀伊を与えられる
天正13年(1585年)4月頃、秀吉は和泉・紀伊(南部の一部を除く、推定28万石)を秀長に与え、和歌山城を拠点とする統治体制を構築させます。
👉和歌山城は、天正13年3月21日に築城が開始され、普請奉行は配下の藤堂高虎、羽田正親、
横浜良慶が務めました。この3人は秀長の腹心の部下であり、工事は年内に終了したとされる。
秀長の和泉支配
和泉支配の体制と領地
和泉国では、岸和田城に桑山重晴が配置され、上二郡は羽田正親、下二郡は井上高清が代官として任務にあたったようです。
しかし、その後石川吉輝(数正)、片桐且元、小出秀政(秀吉・秀長の母の妹婿)といった秀吉直臣が配置されたため、和泉一国が秀長の配下にはなく、むしろ秀吉の直接管轄に属して、同国の管理について秀長に委ねられていたと考えられます。
五か条の条書
天正14年(1586年)2月21日(秀長に大和が与えられ、拠点を郡山城に移し、大和支配を始めた後)、秀長は和泉国に宛てて五か条の条書を出しています。
内容は村落統治をどのように行うか、という方針を示すものになります。
▶大和郡山城

👉秀長に和泉が与えられたのは前年ですが、すでに農耕作業が始まっていたため翌年の発給と
なっています。
👉ただしこれは前欠のため、五か条以上あった可能性もあります。
また、村落を支配する家臣の行為についても規定しています。
家臣に不当な行為を行わせないことを前提に、家臣と村落の間で、年貢・公事の租税徴収をめぐる紛争をできるだけ抑制しています。
秀長の紀伊支配
天正13年(1585年)4月8日に紀伊三井寺(和歌山市)、10日に和泉佐野郷・鳥取・尾崎浦(阪南市)、14日に紀伊加太淡島(和歌山市)に濫暴狼藉禁止を保証する禁制を出しています。
また20日は紀伊海部郡仁義庄本村地蔵堂(海南市)に保護を保証し、25日には太田城下の社家郷に禁制を与え、28日には紀伊有田郡の国衆・白樫左衛門尉(1月に秀吉に従属)に、白樫氏の心情や特権を保証する覚書きを与えており、秀長が紀伊の国衆統制にあたっていることを示しています。
紀伊では南部が残されていたため、牟婁郡芳養城(田辺市)に杉若無心、日高郡入山城(美浜町)に青木重吉、有田郡広城(広川町)に尾藤頼忠、和歌山城に桑山重晴(秀長が大和に移った後、岸和田城から和歌山城に移った)。それを受けて岸和田城には行為で秀政が在城したと伝わります。
しかし、これらの体制が継続されたのかは分かりません。
秀長支配のまとめ
👉秀長の支配で注目されるのは、禁制の発給を通じて家臣の濫行を抑制し、年貢・公事をめぐる
在地社会の紛争を調整しようとしたことです。
これは、豊臣政権が武力支配から、秩序と安定を重視する領国統治に移行しつつあったことを
示すと考えられます。
👉和泉・紀伊の両国には秀吉直臣も多数配置され、秀長は独立した大名というより、秀吉政権内部
において畿内南部の統治を統括する「代理者」的立場にあったと理解できます。
地域支配の実務を担い、政権の安定化に大きく貢献した点で、秀長の役割は大きいものでした。
秀長の官位
天正13年(1585年)10月、縦三位・参議兼近衛中将に任じられます。
この時点で、武家の中で秀長より高い感触を得ていたのは、縦一位・関白の秀吉を除くと、正三位・権大納言の信雄だけでした。
翌年9月には豊臣姓を与えられ、同じ年の10月には縦三位・権中納言に出席します。
👉11月家康も正三位・権大納言に昇進。
翌年、二人は縦二位・大納言に昇進します。秀長は家康と同格の扱いでした。
一時的に秀吉の後継候補と噂されたことも、決して根拠のないものではなかったと考えられます。
まとめ
- 雑賀一揆・根来寺勢力は、宗教と在地領主が統合した自律的地域権力であった
- 秀吉は天正13年(1585年)の和泉・紀伊侵攻でこれらを軍事的・構造的に解体した
- 戦後、秀長を通じて禁制と調整を重視した領国統治が進められた
- 和泉・紀伊支配は、豊臣政権が惣国的秩序を否定し、中央集権的支配へ移行する過程を示す
- 秀長の高官位は、豊臣政権の権力構造と後継問題を考える重要な手掛かりとなる
👉和泉・紀伊征伐は、秀吉の全国統一事業の一局面であると同時に、戦国的地域権力を解体し
豊臣政権の領国支配が本格化した時期として位置づけられます。
【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク


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