ら
り
竜造寺氏(りゅうぞうじうじ)
藤原秀郷(ひでさと)の一流と伝えるが不明。初代秀家が肥前国竜造寺地頭職(しき)に補任(ぶにん)され竜造寺氏と称した。室町時代は少弐(しょうに)氏に属したが,戦国時代隆信が出て筑後・肥前まで進出し,島津・大友両氏と並ぶ勢力となった。1584年島津氏に敗れ,隆信は敗死。子の政家は病弱のため家臣の鍋島氏が国事を代行,1607年竜造寺氏は絶家。
竜造寺政家(りゅうぞうじ まさいえ)1556-1607
肥前佐賀(嘉)城主。父は竜造寺隆信。1天正8年(1580年)父隠居のあとをうけて相続。実質的には父の死亡(1584)後に実権を握る。しかし戦国大名としての地位は大幅に後退した。
1587年、豊臣秀吉によって本領の肥前4郡(佐嘉、小城、藤津、三根)を安堵され、のち羽柴姓・豊臣姓を受ける。90年には、秀吉の鍋島氏重用策により,子藤八郎に譲って隠居。隠居領5000石。子藤八郎(高房)の領知高は肥前国30万9902石。
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六角義賢(ろっかく よしかた)1521-1598
六角定頼(佐々木定頼)の子。佐々木義賢ともいう。蒲生郡観音寺城を居城とした。
父とともに将軍・足利義晴および義輝を奉じて、京都や近国で三好氏や長野氏と戦い、戦国期の政争に関与した。1552年(天文21年)に父の死により家督を継いだ。1558年(永禄1年)足利義輝を奉じて、京都白河で三好長慶と戦い、和議が成立して、義輝を二条城に入れることに成功した。家督を子の義弼(よしすけ)(のち義治(よしはる))に譲り、剃髪して抜関斎承禎(ばっかんさいじょうてい)と称した。その後も実権を握り、京都に再三出兵したが、63年(永禄6)の重臣後藤但馬守父子を殺害した観音寺騒動により、家臣団への統制力は弱まった。また、北近江の浅井氏の勢力が増しており、68年には、足利義昭を奉じて上洛する織田信長の前に城を去り、甲賀山中に退き、以後勢力を回復できなかった。
なお、1567年に義治とともに「六角氏式目」を制定したが、これは戦国家法として、内容、形式ともに注目すべきものである。慶長3年3月14日没。法号梅心院弥天藤阿。
六角義治(ろっかく よしはる)1545-1612
六角義賢(よしかた)の子。弘治3年近江半国の守護となる。永禄6年重臣・後藤賢豊(かたとよ)父子を殺害し、家臣団の信頼をうしなう(観音寺騒動)。10年父と六角氏式目を制定。11年織田信長に攻められ、観音寺城をすてて流浪した。慶長17年10月22日死去。68歳。初名は義弼(よしすけ)。
