徳川家康の生涯

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徳川家康 秀頼体制への移行と五大老・五奉行

秀吉は秀頼へ天下人を継承させるべく、数え年六歳にして縦二位権中納言にする等、その立場を固めることに勤みます。慶長三年、病の身にあった秀吉は自らの死期を悟り、秀頼を支える五大老・五奉行体制に移行させます。その移行過程と役割を解説しています。
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徳川家康 豊臣秀次事件と秀頼体制

秀吉の後継男子・拾の誕生で、秀吉と甥で関白の秀次の関係に変化が生じます。秀次は謀叛の疑いを掛けられ、秀吉に許されず、高野山に出奔し自害します。秀吉は拾(豊臣秀頼)体制の準備を進めます。秀次事件が発生した背景と拾体制への布石を解説しています。
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徳川家康 文禄の役と秀吉の三国国割構想

国内を統一した秀吉の目は東アジアに向けられます。天皇が東アジアの頂点に立ち、自身はその保護者となることを目指した壮大な構想のもと、朝鮮に兵を進めます。文禄の役発生の経緯と秀吉が目指した東アジアの支配「三国国割構想」について解説しています。
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徳川家康 家康の関東統治構造

家康が入部した頃の江戸は、水陸交通の要所であり政治の拠点ともなっていました。この江戸を中心に家康はどのように関東を統治していったか。家康が巧みに一門衆、重臣を領地に配置し領国の平和維持に努めた過程を解説しています。
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徳川家康 「関東・奥両国惣無事」活動としての小田原合戦と秀吉の奥州仕置き

「関東・奥両国惣無事(関東・奥州平定)」を進める秀吉は、北条氏への攻撃を決意、小田原城を包囲し降伏させます。そして、関東・奥州の要として家康に関東移封を命じ、奥州仕置きに取り掛かります。小田原合戦から奥州平定に至る過程を解説しています。
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家康の「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応は?(小田原攻めへ至る過程)

家康は豊臣政権への態度を明確にしない北条氏へ最後通告を行います。北条氏は秀吉に従う態度を示し、天正壬午の乱後の上野国沼田の領有問題も解決。関東惣無事が進むと思われた矢先、北条氏が政権へ抵抗を示します。小田原攻めへ繋がる過程を解説しています。
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秀吉への臣従と秀吉の天下統一「惣無事令」とは?

【この記事に関連する場所】 ①長島城、②岡崎城、③三島、④沼津、⑤知立、⑥浜松城、⑦大坂城、⑧京都市、⑨赤間関(下関市)⑩日向(宮崎市)、⑪肥後(熊本市)、⑫泰平寺※番号をクリックすると説明文が表示されます。 天正大地震  秀吉の来襲が迫る...
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真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「家康成敗」へ至る過程とは?

天正壬午の乱の和睦条件により家康が真田氏に沼田領の引き渡しを求めると、真田氏は天正十三年(1585)上杉氏に保護を求め、家康から離反します。同年十一月、宿老石川数正が秀吉のもとに出帆します。真田氏との関係は?宿老数正出帆の謎を解説しています。
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小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?

織田信雄は親秀吉派家臣を粛清し、秀吉と断交します。家康も織田家親戚大名として信雄を支持。一方、秀吉はこの行為を敵対行為とみなし両軍は戦いへ(小牧・長久手の戦い)。圧倒的兵力の差から秀吉が勝利。戦いの状況、秀吉の天下人への過程を説明しています。
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信長亡き後、羽柴秀吉は如何に織田家の主導権を握っていったか? そして、家康はどう動いたか?

信長亡き後、後継を巡る主導権争いが起こります。信忠嫡男・三法師、信長次男・信雄、信長三男・信孝に羽柴秀吉、柴田勝家など宿老の思惑も絡んだ争いとなり、最後は秀吉と家康が対立します。信長亡き後の織田家でどのように権力争いが起きたか解説しています。