徳川家康の生涯

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徳川家康 家康誕生までの松平家の成り立ち

東は駿河の今川氏、西は尾張の織田氏に挟まれた三河の松平氏。牢浪人といわれる松平家の祖・氏親から織田信長、豊臣秀吉に仕え、終には征夷大将軍として300年に渡る江戸幕府を開いた徳川家康の誕生までの松平家の系譜を解説しています。
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徳川家康 家康にとっての桶狭間の戦い

今川義元が出陣、従来は上洛が目的と言われましたが、現在では自国の平和維持のために織田氏との境目確保が目的であったと考えられています。桶狭間の戦いに至る行程、そしてなぜ今川氏の軍勢が敗れたか。家康はどう行動したかを解説しています。
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徳川家康 織田信長との同盟成立と三河一向一揆を鎮めて三河平定への過程

桶狭間での敗戦で三河における今川氏の影響力が低下します。その時、家康は領国を守るためどう決断したか。そして、どのようして三河を平定して戦国大名徳川家康が誕生したか。さらに、尾張の織田信長との関係について解説しています。
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武田氏滅亡の過程は?

長篠の戦いで敗れた武田勝頼。敗戦後、高天神城の落城をきっかけに重臣のあいつぐ離反が続きます。領国内に動揺が拡がり、最後はは譜代家老衆・小山田信茂の離反に遭い行き場が無くなります。武田氏が滅亡の過程、織田・徳川勢の動向を解説しています。
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本能寺の変と家康の対応は?

天正十年六月二日早朝、明智光秀の謀叛により「本能寺の変」が起こります。本能寺に宿泊していた織田信長は自害に追い込まれ、嫡男・信忠も二条城で討ち死にします。その時、堺で報に触れた家康の取った行動とは?本能寺の変が起きる過程とともに解説しています。
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家康は、天正壬午の乱後の五カ国領有と領国化を、どのように進めたか?

北条氏との和睦により天正壬午の乱は終結します。家康は甲斐国都留郡と信濃佐久郡を手に入れ、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領国とする大名になります。新たに手に入れた地域の特色ある歴史的な背景と家康が統治していく過程を解説しています。
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信長亡き後、羽柴秀吉は如何に織田家の主導権を握っていったか? そして、家康はどう動いたか?

信長亡き後、後継を巡る主導権争いが起こります。信忠嫡男・三法師、信長次男・信雄、信長三男・信孝に羽柴秀吉、柴田勝家など宿老の思惑も絡んだ争いとなり、最後は秀吉と家康が対立します。信長亡き後の織田家でどのように権力争いが起きたか解説しています。
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小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?

織田信雄は親秀吉派家臣を粛清し、秀吉と断交します。家康も織田家親戚大名として信雄を支持。一方、秀吉はこの行為を敵対行為とみなし両軍は戦いへ(小牧・長久手の戦い)。圧倒的兵力の差から秀吉が勝利。戦いの状況、秀吉の天下人への過程を説明しています。
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真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「家康成敗」へ至る過程とは?

天正壬午の乱の和睦条件により家康が真田氏に沼田領の引き渡しを求めると、真田氏は天正十三年(1585)上杉氏に保護を求め、家康から離反します。同年十一月、宿老石川数正が秀吉のもとに出帆します。真田氏との関係は?宿老数正出帆の謎を解説しています。
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秀吉への臣従と秀吉の天下統一「惣無事令」とは?

【この記事に関連する場所】①長島城、②岡崎城、③三島、④沼津、⑤知立、⑥浜松城、⑦大坂城、⑧京都市、⑨赤間関(下関市)⑩日向(宮崎市)、⑪肥後(熊本市)、⑫泰平寺※番号をクリックすると説明文が表示されます。天正大地震 秀吉の来襲が迫る緊迫し...
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家康の「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応は?(小田原攻めへ至る過程)

家康は豊臣政権への態度を明確にしない北条氏へ最後通告を行います。北条氏は秀吉に従う態度を示し、天正壬午の乱後の上野国沼田の領有問題も解決。関東惣無事が進むと思われた矢先、北条氏が政権へ抵抗を示します。小田原攻めへ繋がる過程を解説しています。
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徳川家康 「関東・奥両国惣無事」活動としての小田原合戦と秀吉の奥州仕置き

「関東・奥両国惣無事(関東・奥州平定)」を進める秀吉は、北条氏への攻撃を決意、小田原城を包囲し降伏させます。そして、関東・奥州の要として家康に関東移封を命じ、奥州仕置きに取り掛かります。小田原合戦から奥州平定に至る過程を解説しています。
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徳川家康 家康の関東統治構造

家康が入部した頃の江戸は、水陸交通の要所であり政治の拠点ともなっていました。この江戸を中心に家康はどのように関東を統治していったか。家康が巧みに一門衆、重臣を領地に配置し領国の平和維持に努めた過程を解説しています。
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徳川家康 文禄の役と秀吉の三国国割構想

国内を統一した秀吉の目は東アジアに向けられます。天皇が東アジアの頂点に立ち、自身はその保護者となることを目指した壮大な構想のもと、朝鮮に兵を進めます。文禄の役発生の経緯と秀吉が目指した東アジアの支配「三国国割構想」について解説しています。
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徳川家康 豊臣秀次事件と秀頼体制

秀吉の後継男子・拾の誕生で、秀吉と甥で関白の秀次の関係に変化が生じます。秀次は謀叛の疑いを掛けられ、秀吉に許されず、高野山に出奔し自害します。秀吉は拾(豊臣秀頼)体制の準備を進めます。秀次事件が発生した背景と拾体制への布石を解説しています。