2023-05

徳川家康

徳川家康 全国統治への布石と征夷大将軍就任

家康は慶長八年(1603)ついに征夷大将軍に就任します。そして慶長十年将軍職を秀忠に譲り、徳川氏が将軍として政権を世襲することを天下に知らしめました。家康が行った全国統治へ向けた諸政策、家康と豊臣秀頼との関係を解説しています。
徳川家康

徳川家康 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石

関ヶ原の合戦に大勝した家康は戦後処理を進めます。西軍の主要メンバーは戦死した大谷吉継を除き、市中引き回しの上処刑。東軍の主力であった豊臣大名は大幅な加増となりましたが、遠隔地へと転封となります。家康がいかに自らの体制を築いていったか解説しています。
徳川家康

徳川家康 小山評定から関ヶ原へ

家康が会津の上杉征伐へ向かっている最中、石田三成が挙兵します。家康は諸将を呼び寄せた小山評定で三成との決戦に決します。福島正則や池田輝政は岐阜城を落とし、家康も合流し、関ヶ原に向かいます。三成の挙兵から関ヶ原に至る過程を解説しています。
徳川家康

徳川家康 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と三成の挙兵

慶長五年(1600)五大老の一人であった上杉景勝に謀叛の嫌疑が掛かり、さらに、石田三成が挙兵します。上杉討伐に出馬中の豊臣諸将は小山(栃木県小山市)に集結。所謂「小山評定」で三成との決戦が決定。関が原合戦に向かう過程を解説しています。