2023-03

徳川家康

徳川家康 「関東・奥両国惣無事」活動としての小田原合戦と秀吉の奥州仕置き

「関東・奥両国惣無事(関東・奥州平定)」を進める秀吉は、北条氏への攻撃を決意、小田原城を包囲し降伏させます。そして、関東・奥州の要として家康に関東移封を命じ、奥州仕置きに取り掛かります。小田原合戦から奥州平定に至る過程を解説しています。
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家康の「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応は?(小田原攻めへ至る過程)

家康は豊臣政権への態度を明確にしない北条氏へ最後通告を行います。北条氏は秀吉に従う態度を示し、天正壬午の乱後の上野国沼田の領有問題も解決。関東惣無事が進むと思われた矢先、北条氏が政権へ抵抗を示します。小田原攻めへ繋がる過程を解説しています。
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秀吉への臣従と秀吉の天下統一「惣無事令」とは?

【この記事に関連する場所】 ①長島城、②岡崎城、③三島、④沼津、⑤知立、⑥浜松城、⑦大坂城、⑧京都市、⑨赤間関(下関市)⑩日向(宮崎市)、⑪肥後(熊本市)、⑫泰平寺※番号をクリックすると説明文が表示されます。 天正大地震  秀吉の来襲が迫る...
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真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「家康成敗」へ至る過程とは?

天正壬午の乱の和睦条件により家康が真田氏に沼田領の引き渡しを求めると、真田氏は天正十三年(1585)上杉氏に保護を求め、家康から離反します。同年十一月、宿老石川数正が秀吉のもとに出帆します。真田氏との関係は?宿老数正出帆の謎を解説しています。