2023-01

徳川家康

本能寺の変と家康の対応は?

天正十年六月二日早朝、明智光秀の謀叛により「本能寺の変」が起こります。本能寺に宿泊していた織田信長は自害に追い込まれ、嫡男・信忠も二条城で討ち死にします。その時、堺で報に触れた家康の取った行動とは?本能寺の変が起きる過程とともに解説しています。
徳川家康

武田氏滅亡の過程は?

長篠の戦いで敗れた武田勝頼。敗戦後、高天神城の落城をきっかけに重臣のあいつぐ離反が続きます。領国内に動揺が拡がり、最後はは譜代家老衆・小山田信茂の離反に遭い行き場が無くなります。武田氏が滅亡の過程、織田・徳川勢の動向を解説しています。
徳川家康

松平信康事件の真相とは?

遠江平定に向けて高天城を攻略中の天正七年(1579)八月二十九日に信康の生母・築山殿が殺害され、九月十五日には信康が自刃に追い込まれるという事件が発生します。事件の真相とは? そして、真相に隠された事件のもう一つの側面を解説しています。
徳川家康

長篠の合戦の戦略と遠江平定への道のり

天正三年(1575)五月二十一日、奥三河の要衝・長篠城を巡る戦いが織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こります。織田・徳川軍を勝利に導いた戦略とは?戦後、信長は天下人への道を進み、家康は遠江へ領土拡大、勝頼は衰退していく過程を解説しています。
徳川家康

徳川家康 武田勝頼の侵攻(長篠の戦いへ向かう過程)と信康事件のきっかけ

三方原の敗戦を機に将軍義昭と信長は対立するようになり、義昭は浅井長政、朝倉義景、武田信玄らによる信長包囲網を形成します。しかし、信玄は戦いの最中に死去し、跡を継いだ武田勝頼も奥三河・東三河に侵攻します。その侵攻の背景には徳川家の内紛が・・・