頼朝と奥州藤原氏の関係は?

源頼朝

源頼朝と藤原秀衡

◆義経と藤原秀衡◆
1187年9月~10月頃、義経は奥州平泉に入り、藤原秀衡の保護下に入ります(2年弱の逃亡でした)
義経と奥州藤原氏の関係は
・平治の乱の首謀者藤原信頼の兄基成が1143年陸奥守に就任。藤原秀衡を娘婿に迎えて外戚関係になります。基成は平治の乱後も平泉に住み、奥州藤原氏の政治顧問的な役割をしていたと思われます。
・義経の母・常盤の再婚相手一条長成が藤原基成の父・忠隆と母方の従兄弟関係にあった。
このように両者は藤原基成を通じて結びついていました。また、藤原秀衡は義経を匿うことで頼朝との対決も覚悟したと思われます。

◆奥州藤原氏◆
後三年合戦を陸奥守・源義家の支援で勝利した藤原清衡を祖とします。
貢厩・荘園寄進によって摂関家に近づき、清衡の子・基衡、基衡の子・秀衡は院近臣が多く任じられた陸奥守と連携して、独自の勢力を築いていきます。
陸奥の特産品であった砂金、駿馬と北方貿易によって領土を強化していきます。また、陸奥が後白河の知行国となったことで、秀衡は後白河と深く関係を結ぶことになります。

◆頼朝と秀衡◆
頼朝の挙兵に際して、秀衡が義経を送り出したのは後白河救済が目的で、平清盛の死によって後白河が復活すると頼朝への支援をやめます。
1181年、秀衡は平宗盛から陸奥守に任じられ頼朝追討を命じられます。秀衡は中立をたもちますが、頼朝が上洛するできなかった理由として秀衡の脅威がありました。

頼朝と秀衡の軋轢

秀衡の勢力を脅威と感じていた頼朝は秀衡の力を抑えにかかります。
頼朝は平泉からの貢馬・貢金は一旦鎌倉に送付させ、京へは鎌倉から進上すると申し入れました。
秀衡もこの申し出に応じる請文を提出します。
この時期頼朝は自らを「東海道惣官」と称したのに対して、秀衡を「奥六郡の主」と呼んでいます。
秀衡と後白河の直接の連携は遮断され、陸奥国も頼朝の支配下であり、その一部を支配する秀衡は頼朝の家人という構図でした。

~~~~~奥六郡~~~~~
陸奥国中部に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。
現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域

秀衡の死

1187年10月29日藤原秀衡は死去します。
死去に際して、子供らに義経を将軍として「国務」(奥州の統合)を行うことを命じます。これは頼朝との対決を決断したことを意味します。

長子の国衡(母は奥州平泉藤原氏の腹心佐藤氏、または蝦夷出身)と異母弟の泰衡(母は藤原基成の娘)の母親の身分の違いなどから発生する分裂を防ぐため、国衡に泰衡の母と結婚させ国衡と泰衡に義理の親子関係を結ばせました。

秀衡の死は、頼朝の義経追討、奥州征伐につながり奥州藤原氏は滅亡します。しかし、奥州藤原氏が平泉に華開かせた中尊寺や毛越寺を始めとする文化史跡は世界遺産に指定され、後世にも継承されていくでしょう。

奥州藤原氏に関連する史跡は下記の動画からも、是非ご覧ください

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