頼朝、唯一の官軍として上洛!ついに後白河と面会!

源頼朝

頼朝の入京

奥州合戦の翌年、1190年11月頼朝はついに上洛します。

10月3日に鎌倉を出立。25日には尾張国野間において義朝の墓所に参り、27日には母の実家ゆかりの熱田社に参拝します。29日には美濃国で、平治の乱の際に自信を匿った宿の長老一族に恩賞を与えています。

11月7日、頼朝は千騎の大軍を率いて入京を果たします。先陣は畠山重忠、公人は千葉常胤が務めました。
平時の京にあって、大規模な行列の武士団を見ることはないため人々は驚き、頼朝は唯一の官軍として京に入りました。

後白河との面会

11月9日、頼朝は参内よりも後白河との面会を優先し、院御所の六条西洞院殿に後白河を訪ねます。

頼朝にとって、後白河と面会するのは、平治の乱より30年振りで会談は長時間に渡ったといいます。以後、両者は8度もの会談を行います。

頼朝は後白河と対面にした日に権大納言に、11月24日には右近衛大将(右大臣)にも就任します。
(1185年平氏追討の功績で縦二位、同年に正二位に叙されていました)
12月1日に拝賀を行いますが、12月3日に権大納言とともに辞職します。両職は重責ですが、在京で政務や儀式に参加する必要があり、儀式の故事も知らなかったためです。
院政において右大臣は武官としての意味を失ってしまいましたが、後白河院下で平重盛・宗盛兄弟が就任してから、武門の最高峰を意味するようになっていました。
これ以降、頼朝が征夷大将軍を除いて他の官職に就くことはありませんでした。

九条兼実との対面

当時、摂政を務めていた九条兼実との会談は、後白河の8回に対して11月9日と12月11日の2回のみでした。兼実と面会した際、頼朝は自らを「朝(朝廷)の大将軍」と称し、後白河を支える唯一の官軍としての地位を誇示します。

後白河は当時64歳、死去すれば後鳥羽天皇が政治の中心になります。しかし、後鳥羽はまだ11歳であり、兼実が摂政または関白として政治の中枢に加わることになります。そのため、頼朝は後白河の死を条件として、兼実とともに政治を遂行することを約束します。

しかし、頼朝は自らが朝廷に近づき、権力を握るため、娘大姫を後鳥羽天皇に入内させることを計画し、兼実を驚かせます。
ところが、1192年に後白河が急死してしまいます。関白九条兼実が朝廷に中心となったため、頼朝は兼実との関係改善を図らなければならず、大姫入内計画も断念することになります。

まとめ

全ての敵を排除した頼朝は、唯一の官軍として上洛を果たします。
後白河との会談は8度にのぼり両者の親密さが窺われます。一方、摂政九条兼実には自らを誇示するかのような対応で、階段も2回に留まりました。
しかし、後白河が死去してしまいます。頼朝は兼実との関係改善、大姫入内計画の中断など朝廷対応の再検討が必要となりました。

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