長篠の合戦の戦略と遠江平定への道のり

徳川家康

長篠の合戦

以下の記事に関連する場所
①長篠城 ②鳶ノ巣砦 ③岐阜城 ④岡崎城 ⑤長篠古戦場 ⑥安土城

 長篠城(※1)の守将は天正三年(1575)二月に入城した奥平信昌でした。
(信昌は弘治元年(1555)生まれで長篠合戦当時二十一歳、父定能は天文七年(1538)年生まれで三十八歳でした)
 長篠城は前々年の徳川氏による攻撃で放火され、建物が破損されていましたが、信昌がこれを修復したといわれます。また、信長から家康に送られた兵糧二千俵のうち三百俵が長篠城に入れられていました。

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※1
 築城者の長篠菅沼氏は元々今川氏に仕えていたが、桶狭間の戦い以降は徳川家康に従属していました。
 元亀二年(1571)武田信玄の三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められ双方大きな犠牲を払いましたが、陥落だけは免れました。
 しかし、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、心ならずも武田軍の圧力に屈します。
 元亀四年(1573)武田信玄が死去し、その間隙に徳川家康によって攻められ落城。

 この時の徳川領は、長篠城は手に入れたものの、奥三河の国衆・山家三方衆は武田氏に従い、遠江の二俣城、高天神城は武田方に支配下にあり、遠江北部・東部、三河北部が武田方に浸食さえた状態でした。長篠城は残った東三河のうち、吉田城から野田城を結ぶ豊川流域の上流部に位置し、東三河北部を固守していくための重要拠点でした。
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 信昌は二年前に武田方から家康に降り、起請文が下されて家康の娘婿になることが約束されていました。武田勢は長篠城が奥三河の要衝であるということだけでなく、徳川勢に寝返った信昌に対する遺恨から、天正三年(1575)五月一日に長篠城を包囲すると厳しく攻めたてました。
(この時点で徳川氏についたのは、当主の定能とその嫡男信昌で、定能の父道紋と弟常勝は武田氏側に残っていました。奥平氏は分裂状態だったのです)

長篠城(愛知県新城市)
長篠城(愛知県新城市)

 勝頼は医王寺山に本陣を起き、一万五千ともいわれる(実際はもっと少なかったといわれる)軍勢で長篠城(城兵は二百五十程度)を囲み、背後の鳶ノ巣(とびのす)山砦(愛知県新城市)を押さえました。武田軍は昼夜を問わず長篠城を攻めたてたといわれます。
(この時、籠城していた兵は奥平氏の兵で二~三百人いた可能性があり、これに五井・福釜の両松平氏兵が加わるためもう少し多かったと思われています)

医王寺(愛知県新城市)
武田勝頼本陣跡(愛知県新城市)
鳶ノ巣山砦(愛知県新城市)

 このような武田勢の行動は、家康に対する挑発行為であった可能性も指摘されています。
武田勢は兵力は徳川勢に対して優位に立ちますが、織田勢の援軍が到着すると織田・徳川勢が優位に立つことになります。このため家康を挑発して徳川勢のみと対決に持ち込もうとしたのではないかという考えです。
しかし、家康は挑発に乗らず、長篠城の奪還を進める武田氏に対抗するため、織田信長に救援を求めていました。

 この時信長は、前年より信長に抵抗していた大坂本願寺と、三好康長が拠る河内の高屋城の攻撃を目的として四月六日に京都より出陣。本願寺付近の刈田、河内諸城の破却は行いましたが、本願寺への直接の攻撃は行いませんでした。
(これは秋に予定する本願寺への本格的な攻撃の下準備と考えられています)
 四月二十一日京都に戻った信長は、二十七日京都を発ち、二十八日に岐阜着。
五月十三日に岐阜から出陣し、十四日に三河国岡崎で徳川勢と合流し、岡崎城で軍議をひらきます。
(岐阜を発つまでに時間を要していますが、鉄砲兵や火薬の調達など長篠の合戦に向けた準備をしていたと思われます)

 信長は長篠城から三キロ西にある設楽ヶ原(有海原)へ武田軍をおびき寄せ、勝頼を撃破する構想を持っていました。その際、武田勢の攻撃を防ぐため柵を築こうと、兵士たちに木材を持たせて来たといわれます。当時の設楽ヶ原は起伏が多いだけではなく、北と南を高い山に挟まれた狭い地域(来たと南の山のあいだはわずか三十町(約3.3Km)でした。また、低地を流れる川は豊川に流れこむ前で深い谷になっていて人馬が通れず、戦場となった連吾川流域の田地はぬかるんだ湿地帯であったと考えられています。したがって、待ち構えるほうが有利だとされていました。
(信長にしては、きわめて防御的な構えとなりましたが、前述のように秋に予定する本格的な本願寺攻めに備え、兵を失いたくなかったための作戦とも考えられます)
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【鳥居強右衛門の挿話】
長篠城の窮状を徳川勢に訴える使者となった鳥居強右衛門(すねえもん)が岡崎で織田・徳川軍の来援を要請し、長篠城へ帰城の途中、武田軍に捕縛されてしまいます、そして、城内の将兵に対して「援軍は来ない」と言うように強制されます。
 しかし、強右衛門は家康らの来援が近いことを、城内の兵に告げて励ましたために、磔になったという出来事があったと言われています。
強右衛門が城内から派遣されたのが十四日、岡崎で信長・家康と対面したのが十五日、捕縛され、処刑されたのが十六日、もしくは十七日とされています。
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家康が武田勢の挑発に乗らなかったこと、長篠城が猛攻に耐え抜いたこと、信長の迅速な救援行動、この時点で勝頼に勝利の目は無くなっていたのかもしれません。

鳥居強右衛門磔の碑(愛知県新城市)
鳥居強右衛門の墓(愛知県新城市新昌寺)
長篠城から強右衛門磔の場を望む(写真中央の土の部分の上に建つ碑が磔の碑)
強右衛門磔の場から長篠城を望む(写真中央の柵及び人影が長篠城)

 織田軍は十六日に牛久保城に一泊したあと、十七日に野田原に野陣を布きます。そして、十八日に設楽ヶ原(愛知県新城市)に着陣。
 信長は極楽寺山に本陣を構え、嫡男・信忠は新御堂山に本陣を構えました。

織田信長本陣跡(愛知県新城市)
織田信忠本陣跡(愛知県新城市)

 窪地のある地形を利用して、軍勢を段々に配置して三万といわれる軍勢をそれほどに見えないようにしたといわれます。
 家康は前面に出て連吾川を前にして高松山に陣を敷き、武田勢の来襲に備えて五月十九日から二日ほどで三重の馬防の柵を設けたといわれます。
 左翼、中央は織田軍、右翼は徳川軍、さらに最右翼に織田援軍佐久間信盛、水野信元を配置しました。

※信長は陣城を堅固にすることで、武田軍との決戦を回避し、武田軍が後退することを図っていたと考えられる。信長は秋に本願寺攻めを再開することを予定していた。そのため軍勢に大きな損失を出すことは避けたいと考えていた。
 ところがそれを勝頼は、信長の弱気とみた。とする説もあります。

徳川家康本陣跡(愛知県新城市)
馬防柵(愛知県新城市)

 武田の老臣たちはひとまず兵を引き、もし敵が追撃してきたなら、信濃国で迎撃すべきだと主張します。しかし、長坂釣閑斎ら勝頼の側近らは、織田・徳川勢との設楽ヶ原での決戦を主張します。これは勝頼の意思で、側近たちが代弁したといわれます。

 こうして勝頼は、長篠城の抑えとして高坂昌澄と小山田昌行ら七人の部将と二千の軍勢を長篠城包囲として残し、自らは全軍を率いて設楽ヶ原に進軍します。攻撃の主力を徳川軍に向け、右翼が馬場信春、土屋昌次、真田信綱・昌輝兄弟、穴山信君ら、中央は小幡憲重・信真父子、武田信豊ら、左翼は内藤昌秀、原昌胤、山県昌景、小山田信茂ら布陣します。
 両軍は連吾川を挟んで対峙することになり、信長は敵の退路を断ち、連合軍に攻撃をしかけてこざるをえない状況に、武田勢を追い込むことを考えました。

武田勝頼観戦地(愛知県新城市)
連吾川(愛知県新城市)
長篠の合戦 着陣図

 天正三年(1575)五月二十一日、織田・徳川両氏は武田氏との合戦に突入します。
戦いの前日、策をめぐらせた信長は、家康の重臣酒井忠次と信長の馬廻衆で構成された別動隊により、武田方の拠点である鳶ノ巣山砦を攻略することにします。
(この攻撃隊は徳川家中の東三河衆を総動員しただけでなく、家康旗本や西三河衆の一部も編入された大部隊でした。また、この作戦は、「信長公記」では信長の発案と記し、「三河物語」は忠次の発案と記しています。)

 酒井忠次は二十日の戌の刻(午後八時頃)に出立し、翌二十一日辰の刻(午前八時頃)に数百挺の鉄砲を放ち、突撃。武田氏の包囲軍を追い払って長篠城に入り、城兵と合流します。
 そして、城兵たちと一団となって攻めかかり、敵陣の小屋を焼き払います。勝頼が残した七人の武将率いる長篠城包囲軍は虚をつかれ鳳来寺方面(北)に敗走しました。
 このため、設楽ヶ原の武田軍はいわば退路を断たれたような状態となりました。

 本隊の戦いは早朝から始まり、未の刻(午後二時頃)まで続いたようです。
武田軍は、左翼が徳川軍に猛攻を仕掛け、中央と右翼はこれを救援すべく、織田軍に襲いかかりました。合戦中に長篠包囲網が壊滅し、退路を断たれた武田軍は正面の徳川勢や織田陣営に次々と攻撃を仕掛けます。
一番山形昌景(鉄砲によって散々に討たれ後退)、二番武田信廉(のぶかど 信玄の弟)(鉄砲で大半が討たれ後退)、三番小幡憲重(おばたのりしげ)(鉄砲で過半が撃ち倒され、兵を失い退却)、四番武田信豊(のぶとよ 信玄の甥)(多くを討たれ退却)、五番馬場信春(同様に兵を失って退却)だったといわれています。
 武田勢は攻撃を繰り返しましたが、鉄砲と馬防柵に阻まれていきました。
(前述のように、連吾川周辺の地は狭い地域であり、一部隊毎に突撃する方法以外に選択肢はなかったのかもしれません)

 昼近くになると次第に勝敗が明らかになり、残存部隊が勝頼本陣の周りに集まり、武田軍の敗走が始まります。
 これを見た連合軍は、馬防柵を出て総攻撃に転じます。
勝頼は土屋昌恒らわずかな側近と戦線を離脱し、信濃に向かいました。武田勢は勝頼を逃がすために踏みとどまって戦い、終に総崩れになります。
 この退却戦で、山形昌景・内藤昌秀・原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟などの重臣が戦死。最後の殿戦を指揮した馬場信春は、寒狭川沿いの橋詰というところで奮戦し、勝頼が無事に落ち延びたことを確認すると、壮絶な戦死を遂げたといわれます。

山県昌景の墓(愛知県新城市)
内藤昌秀(昌豊)の墓(愛知県新城市)
原昌胤の墓(愛知県新城市)
真田信綱・昌輝の墓(愛知県新城市)
馬場信春の墓(愛知県新城市)

 武田氏が鉄砲を軽視し、新時代に対応した軍備を怠ったために敗れたとするイメージが強く残っています。しかし、武田氏は東国でいち早く鉄砲を導入し、この戦いで鉄砲の数が兵数に占める割合は10%と、織田・徳川連合軍と同じ割合でした。
 織田・徳川連合軍は信長が京都や堺などを押さえ、南蛮貿易により鉄砲玉に最も適した鉛や火薬の原材料となる硝石が容易に入手出来たのに対し、武田氏は鉛不足に苦しみ青銅製の玉を使用しており雲泥の差があったことによります。
 長篠合戦は物量が明暗を分けた戦いであり、新戦法と旧戦法という構図ではなく、物量豊かな西(織田・徳川)と内陸部で物資の入手が困難な東(武田)の激突という構図で理解すべきものであるといえます。

徳川氏周辺で成立した記録からたどる長篠合戦

 徳川氏周辺で成立した資料、
・「三河物語」:作者 大久保忠教(大久保彦左衛門)(大久保忠世の弟)
        元和八年(1622)に草稿本が完成し、最終的の残る自筆本は寛永三年(1626)に
        書かれた。長篠合戦から約50年経過。
・「松平記」:江戸時代のごく初期に成立されたとされ、家康が神格化され礼賛されるようになる前に
       書かれたため、ある程度の客観性があると評価されている。
・「当代記」:江戸時代の始め頃に徳川氏周辺で成立した記録として、その後の江戸幕府による史書
       編纂に利用されている。
・「大須賀家蹟」:徳川家家臣の大須賀氏の家譜で、長篠の戦いの有力な資料と評される。

 これらの資料で確認できる長篠合戦の特徴は
・決着がついたのは未の刻(午後二時頃)、開始時間はそれぞれ違いがあるが日の出(午前五時前)
 から早朝(午前六時頃~午前八時頃)
・武田軍の戦術は部隊毎に入れ替わりながら突入していった
・織田・徳川軍の戦術は、柵を構え、基本的には外に出ないという戦い方。ただし、下馬して歩兵と
 なり、柵の外に出て敵を引き付つけるという戦術(徳川方では大久保忠世・忠佐兄弟)をとって
 いたようである。できるかぎり相手を引きつけてから鉄砲で撃つという戦い方。
・鉄砲については、千挺から数千挺までまちまち、これを用いた戦術についても具体的には定かでは
 ない。(鉄砲についてまったく触れていない資料もある)
というものです。
 少なくとも同時代人においては、長篠合戦すなわち鉄砲という単純な見方一色に染まっていたわけではないことが分かる。
(長篠合戦は鉄砲がメインでは無く ・柵(馬防柵)を構えて原則的にその外に出ない ・柵まで武田軍を引き付けるために足軽隊を敵の前まで近づける ・それを追って敵兵が近づいてきたとき、柵の内側から鉄砲を放つ といった柵が印象的な城攻めのようないくさでもあったらしいとの考えもある。)

合戦後の信長

 信長は「天下人」への道を進んでいきます。 

 手始めに明智光秀を六月初旬に丹波国に入らせ、同国の勢力を従属させるために調略を開始させます。しかし、この調略が不調に終わると丹波攻めが開始されました。
 この丹波攻めは、足利義昭とむすぶ宇津氏らを攻撃することで、義昭を核とした反信長連合が何らかの起こすような芽を摘むための作戦ではないかとの見方もあります。 

 信長自身も、天正三年(1575)八月から九月にかけて、前年一向一揆に奪われた越前の平定に向かいます。九月二日には北ノ庄(福井市)に入り、柴田勝家を置き、前田利家らを副えて越前の支配を任せます。
 丹波同様、畿内周辺の反信長勢力をまず一掃することにして、大坂本願寺を最後に攻撃するという計画だったのではないでしょうか。

 十月には入京、十一月四日に縦三位権大納言に叙任されて公卿に列せられ、七日には右大将も兼任します。
これにより、縦三位権大納言兼征夷大将軍である足利義昭と官位でほぼ並んだことになりました。

 十一月下旬には岩村城(岐阜県恵那市)を奪還し、二十八日には嫡男・信忠に家督を譲り、岐阜城と尾張・美濃の両国を与えます。
 そして、翌天正四年(1576)正月中旬から安土城(滋賀県近江八幡市)の普請を始め、二月には安土に御座を移し、「天下人」への道を歩み始めました。

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 岩村城攻略の際に、家康の叔父・水野信元に武田方への内通の嫌疑がかけられます。
岩村城代・秋山虎繁が兵糧や武器弾薬の欠乏に苦しみ、城内に備蓄された銭や道具類を商人に託し、信元の城下刈谷や緒川で売却し食料などと交換します。この行為を信元が見逃していたというものでした。
 これを知った信長は激怒し、岐阜に召喚し、信元は家老を岐阜に派遣します。しかし、この家老が信長の使者と岐阜に向かう道中に酒に酔って斬りあいになり、双方とも絶命するという失態を起こします。
 信元は家康を頼り、岡崎に逃亡。しかし、信長の怒りは収まらず、家康に信元に腹を切らせるように依頼します。信元は徳川の菩提寺大樹寺に匿われていましたが、十二月二十七日に自刃します。

大樹寺(愛知県岡崎市)

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合戦後の家康

以下の記事に関連する場所
①二俣城 ②光明城 ③犬居城 ④諏訪原城 ⑤小山城 ⑥高天神城 ⑦江尻城 ⑧田中城
⑨横須賀城 ⑩懸川城 ⑪滝堺城

 長篠の戦いの後も、家康は信玄によって攻略された諸城を奪還していきます。

 天正三年(1575)五月下旬には駿府になだれこみ、城下に放火。六月から七月にかけては遠江の要衝二俣城につながる犬居谷に侵攻し、二俣城への補給を封じ、周囲に付城の建設を命じます。
 八月に遠江諏訪原城を攻め、激戦の末降伏させ、牧野城と改めます。さらに、九月にはさらに東に進出し小山城(吉田町)も取り囲みます。
 これに対して勝頼は、八月まで戦死者の後継者取り立てや、兵員の補充を行い、一万三千余の軍団を再編成して小山城の後詰めに出陣し、守将・岡部元信の奮戦もあり小山城の救援と高天神城への兵糧補給には成功します。
 孤立した二俣城は兵糧が尽き、十二月に徳川方に降伏、開城します。三河方面についても六月に武節城が陥落し、徳川氏による三河再統一がなされていました。

二俣城(静岡県浜松市天竜区)
諏訪原城(静岡県島田市)
小山城(静岡県吉田町)
高天神城(静岡県掛川市)

合戦後の勝頼

 大敗を喫した勝頼は早急に態勢を建て直すことを余儀なくされます。

 駿河の支配については江尻城(静岡市清水区)の城代・山県昌景が長篠の合戦で討ち死にしたため、穴山信君が入ります。
 また、天正三年(1575)十二月十六日書状で勝頼は「軍役条目」十八ヵ城を定め。その十条目で現在は鉄砲が大切なので、長柄(柄が長い武具)を減らしてでも鉄砲を増やすようにと指示しており、長篠の合戦で鉄砲の威力を実感したと思われます。

江尻城(静岡県静岡市清水区)

 翌天正四年(1576)には足利義昭の備後国鞆(広島県福山市)への動座があり、「甲相越三和(こうそうえつさんか)」の調停も行われましたが、その破綻により10月には武田・上杉間の「甲越和与」は成立したと見られています。
 また、毛利氏との間では甲芸(こうげい)同盟を結び、家康の同盟関係にある信長を西から牽制しました。さらに、天正五年(1577)の初頭頃までに勝頼は北条氏政の妹・桂林院殿を正妻に迎え、同盟強化を図っています。

高天神城の攻防と遠江平定

 天正五年(1577)閏七月、家康による高天神城の奪還をめざす攻撃が始まります。
勝頼も出陣しまたが、両軍主力による激突に至ることはなかったようです。

 甲府から出馬した勝頼による後詰めは、基本的に江尻城→田中城→小山城→高天神城という経路で行われました。この時は勝頼が小山城から大井川を越えて撤退したため、家康も浜松城に帰還したようです。
 迎え撃つ家康側の対応は、翌天正六年(1578)七月の横須賀城(静岡県掛川市)築城以降はこれを最前線として武田軍に備え、さらに懸川城から牧野城(諏訪原城)のラインで牽制しました。

田中城(静岡県藤枝市)
横須賀城(静岡県掛川市)
掛川城(静岡県掛川市)

 こうした中の天正六年三月、越後の上杉謙信が死去し、後継の景勝(謙信の甥、母は謙信の姉)と影虎(北条氏政実弟、妻は景勝の妹)の間に争い(「御館の乱」)が生じます。
 武田氏は両氏の和睦を図りますが失敗し、結果的に景勝に与することになり、天正七年(1579)三月景虎が自刃して収束し、北条氏との甲相同盟は決裂します。
 勝頼は景勝との関係強化を図り、八月には妹・菊姫と景勝との婚姻をまとめ、「甲越同盟」が成立。さらに、十月には北条氏に備えるため常陸の佐竹義重とも交渉し「甲佐同盟」も成立。
信長との講和を目指しましたが、これには信長が取り合おうとはしませんでした。

 勝頼の高天神城後詰めは、天正六年(1578)十一月、翌七年五月、十一月の三回。
駿河・伊豆国境地域での北条氏との抗争が激しくなり、これ以降遠江への出馬ができなくなり、これが最後の後詰めとなりました。
 また、北条氏の画策で、九月には家康との「相遠同盟」が復活したことも、勝頼には脅威となりました。

 天正八年(1580)に入ると、高天神城を巡る攻防は最終局面を迎えます。
7月下旬の小山城と駿河田中城の攻撃を経て、9月には総攻撃を行うなど家康は高天神城への包囲を狭めていきました。
 そのような中、高天神の籠城衆から矢文によって降伏の申し出があり、助命されるのであれば高天神城のみならず、小山城・滝堺城(静岡県牧之原市)も譲渡すると申し出がありましたが、家康は信長の意向もあり、降伏を認めず再度の総攻撃の準備を始めます。
 (信長は「幸福を許すな」と家康に指示を出し、勝頼は「高天神城を見捨てる」決断をしました)

 降伏の望みを断たれた籠城衆は天正九年(1581)三月二十二日、一斉に打って出て敗れ、城は落城しました。

 こうして、家康は七年ぶりに高天神城を奪還したことで、信玄以来の遠江での武田氏との抗争に終止符を打ち、遠江を平定し、遠江・三河二か国を領国とする戦国大名としての立場を確立しました。
 また、「高天神城を見捨てる」決断をした勝頼が滅亡するきっかけとなった戦いともいえると思います。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合 敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社幻冬舎 平山 優著 徳川家康と武田勝頼
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
中央公論新社 金子拓著 長篠合戦
株式会社河出書房新書 本郷和人著 徳川家康とう人
朝日新聞出版 黒木基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク

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