豊臣秀長 小牧・長久手の戦い

豊臣秀長

賤ケ岳の戦い後、織田信雄は政務を主導する秀吉と対立、徳川家康も秀吉の関東政策介入によって対立し、両者は秀吉と衝突します。秀吉が勝利し天下人の立場を確立した小牧・長久手の戦いを秀長の活躍を含めて触れています。                

秀吉と信雄の対立構図

織田政権の「後継」を巡る政治対立

賤ケ岳の戦いの領地配分により、織田信雄は尾張・伊勢・伊賀を支配し、長島城を居城としました。
信雄は基本的に領国運営へ比重を置く一方、羽柴秀吉は織田家の正統後継者・三法師を近江坂本城に移して保護下に置き、さらに信雄の意思確認を経ずに政務を主導するなど、「天下人」としての振る舞いを強めていきました。

この結果、両者の間には「政治的正統性(織田家の家督)を誰が代表するか」、および「天下政務の決定権がどこに帰属するのか」という政治対立が生まれました。

家康との対立

加えて秀吉は「関東惣無事」実現を家康に指示するなど、徳川家康の関与領域(関東・信濃など)にも介入を始めます。また、家康の織田家親類としての立場や、秀吉が信雄を当主に擁立した際に織田家大名として承認したことから、家康側にも警戒感・不満が生じていきました。

信雄と家康の連携

信雄は家康、さらに越中の佐々成政らを取り込むことで、秀吉に対抗する政治連合を形成しようとします。

開戦の直接契機

信雄による「粛清」

天正12年(1584年)3月6日、信雄は家康と相談の上、秀吉との関係修復に動いていた津川雄光岡田重孝浅井長時(田宮丸)を長島城で殺害します。
これは信雄が秀吉と対立するにあたり、家中の意思統一(反対派の排除)を図った行動と捉えられます。

軍事衝突へ

秀吉から見ればこの粛清は、信雄が「対秀吉戦」を選択したことを示す明確にシグナルとなり、両者の政治対立が軍事衝突へ転化する決定的契機となりました。

戦局の展開

小牧の膠着

粛清後、家康は酒井忠次らを長島へ派遣し、自身も出陣して清洲で信雄と合流します。

秀吉も大坂を出陣し、伊勢方面に羽柴次秀勝・秀長、美濃方面に三好信吉(のちの秀次)らを派遣、信雄領の伊賀攻略、犬山城奪取などを通じて圧力を強めていきます。

信雄・家康は小牧山城を押さえ、羽黒で森長可を破って小牧山の防衛体制を整え、秀吉は楽田城に陣して対峙し、両者のにらみ合いが続きました。

長久手の局地的勝利

この膠着状態打破のため秀吉は、4月6日に三好信吉を総大将として池田恒興・森長可・堀秀政ら約2万4千を三河方面に進め(三河中入り)、8日に岩崎城を攻略します。

               ▶岩崎城

これに対して、家康は小牧山を出て追撃し、4月9日の長久手合戦で池田恒興・森長可ら秀吉方有力武将を討ちとります。(長久手の戦い)

ただしこの勝利は、戦争全体を決定づける「決戦」ではなく、秀吉の兵站・動員力を崩すことには至らなかった。とされています。

👉小牧・長久手の戦いについては、以下もご参照ください。
  投稿を編集 “小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?” ‹ 歴史うぉ~く — WordPress

秀長の行動

小牧・長久手の戦いにおける秀長の行動について注目していきます。

伊勢 → 犬山

秀長は伊勢方面の別動隊指揮を担い、長久手の戦い時点では伊勢で作戦行動中でした。
天正12年(1584年)4月8日に松ケ島城攻略後、11日までに秀吉と合流し、5月初旬まで犬山周辺に在陣します。

各地で抗争が続いていましたが、秀吉は勝機を見出すべく鵜沼に転身。
5月1日に小牧に進軍して敵を動揺したうえで、3日に転じて木曽川流域の加賀野井城。竹鼻城、祖父江城を攻撃。ようやく6月10日に竹鼻城を落とします。

犬山 → 近江

6月8日には秀吉の一時撤退(病=霍乱)に伴って、近江土山で宿舎普請を担当するなど、前線と後方支援の両面で動きます。秀吉は28日に大阪城に帰陣。
加えて、秀吉不在期に禁制を出して軍紀維持を保証した点から、秀長が尾張方面在陣郡の統制役(留守指令役割)を担った可能性があります。

近江 → 伊勢

そして、秀長は6月17日までに伊勢に進軍しています。

伊勢 → 美濃 → 東美濃

その後、6月16日に滝川一益が蟹江城を押さえますが、家康はこれを攻撃して7月3日に降伏させます。

戦線が長期化するにつれ、動員力・補給能力で勝る秀吉が優位となっていきます。
              ▶蟹江城址

大阪城の秀吉は秀長へ具体的な軍事指示(美濃池尻への在陣、東美濃の警戒など)を送っています。

👉秀長はこの時点で美濃池尻に在陣していたことが分かります
  先に伊勢に在陣していたので、近江を経由して美濃に戻り、さらに東美濃に進軍していたことが
  分かります。

戦いの終結

秀吉の再出陣(8月)を挟み戦局が長引くと、9月に和平交渉が始まります。しかし、一旦決裂。

10月に秀吉は一旦大坂城に戻りますが、10月末に北伊勢に進軍し信雄の本拠地近く(桑名)まで迫ると、信雄は劣勢のもと講和に踏み切ります。

信雄は領地割譲(南伊勢と伊賀)と人質交換を行い、家康も人質を出して講和を求め、最終的に秀吉が講和を受け入れる形で終結します。

この合戦の勝利によって秀吉は、織田家当主であった信雄との主従関係を逆転させて、織田家に代わる天下人としての立場を明らかにしました。

実名を秀長に改名

秀長はこの再度の出陣に際して、秀吉から「秀」の偏諱を与えられて、実名を「長秀」から「秀長」に改名したと推測されます。
(終見は6月20日で、9月12日には秀長を名乗っています)

もとの長秀は、信長から偏諱を賜ったものでした。
秀吉から「秀」を与えられて、信長から与えられた「長」の上に冠することは、秀長が織田家家臣という立場から秀吉の家臣となり、その一門衆としての立場を明確にするものであったと考えられます。

👉同時に甥の三好信吉も「羽柴」姓・「秀次」へ改名しています。

秀吉の叙位任官

この間、秀吉は朝廷から叙位任官を受け、10月2日に縦五位下近衛権少将、11月22日に縦三位権大納言に昇任を果たします。

この官位は、室町幕府将軍、すなわち「天下人」に相応するもので、名実とともに秀吉は「天下人」として承認され、羽柴政権が誕生したことを示します。

織田信雄の臣従

天正13年(1585年)1月に、秀長が名代として信雄に直接働きかけ、信雄は上洛しての臣従を承諾し、2月22日に信雄は大坂城の秀吉に出仕します。
これにより「織田政権 → 羽柴政権」への転換が諸大名に示されました。

👉信雄は秀吉の奏上によって3月1日に縦三位権大納言となります。
  その上で、10日に秀吉は縦二位内大臣に昇進し、織田信雄、足利義昭よりも上位に立ちます。

信雄の臣従過程で、秀長は信雄の「指南」を務めます。
秀長は以後、織田家との関係維持において「指南」役を担う存在として位置づけられます。

まとめ

  • 小牧・長久手の戦いは、織田家後継と天下政務の主導権(正統性)をめぐる政治闘争が軍事衝突化した戦いである。
  • 短期的に長久手で家康が局地的勝利を得ますが、長期戦では動員・兵站で勝る秀吉が優位となり、信雄の臣従につながった。
  • 秀吉の叙位任官・信雄の臣従、秀長・秀次の改名(偏諱・姓の付与)は、羽柴政権への移行と内部秩序の再編を可視化した

※家康の視点からの「小牧・長久手の戦い」については こちら からご覧ください。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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