義経追討への圧力
源頼朝の朝廷への圧力もあり1188年2月に、藤原泰衡(奥州藤原氏四代目)と外祖父の藤原基成に義経追討の宣旨と院丁下文が発給されます。
泰衡は義経追討か、頼朝との対決か厳しい選択を迫られます。
追討宣旨は12月、院丁下文は11月に再度発給され、泰衡に対する朝廷からの圧力(頼朝から朝廷へ圧力をかけていた)は高まっていきました。
頼朝のさらなる圧力
源頼朝は同時に合戦の準備も進めます。
木曽(源)義仲に敗れ会津に退いたのちも、藤原秀衡に領地を奪われて、梶原景時の保護下にあった城助職、改め長茂(すけとも)に合戦の準備をさせます。
1189年2月頼朝は朝廷に対して、泰衡が義経を匿っているとの理由から攻撃を行うことを伝えるとともに、義経に協力した貴族の解官、義経に味方しようとしている延暦寺の悪僧の取り締まりを要求します。
同月、平泉から鎌倉に官使が戻り、義経の所在が判明したので引き渡すという泰衡の請文を提出しました。
泰衡が朝廷と頼朝の圧力の屈したことになりましたが、頼朝は圧力を弱めることはありませんでした。
義経殺害
1189年4月藤原基衡は数百騎馬を率いて、藤原基成の居城衣川館(高館)にいた義経を襲撃します。
義経の家人20人あまりが防戦しましたが、義経は防戦することなく妻子を殺害したのち、自らは自害したと伝わります。享年31歳。
室は河越重頼の娘で、比企尼の孫にあたります。
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義経追討の報が鎌倉に届いたのは翌5月、6月には泰衡の使者・新田高平が首級(しるし)を鎌倉に持参しました。
首実検は和田義盛、梶原景時によって行われました。
義経の首は黒漆の櫃(ひつ)に収められ腐敗を防ぐために美酒に浸してあったといわれます。首実検を見た者は在りし日の義経を思い出し、涙を流したと伝わります。
頼朝の心情はどうだったのでしょうか。
山麓に義経妻子の墓と伝わる石塔がある、奥州藤原氏ゆかりの伝説の山「金鶏山」を動画でもご覧ください。
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