【この記事に関連する場所】
①長島城、②岡崎城、③三島、④沼津、⑤知立、⑥浜松城、⑦大坂城、⑧京都市、⑨赤間関(下関市)
⑩日向(宮崎市)、⑪肥後(熊本市)、⑫泰平寺
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天正大地震
秀吉の来襲が迫る緊迫した状況の中、天正十三年(1585)十一月二十九日の夜半、大地震が起こります。
徳川領での被害は少なかったとされますが、伊勢国では織田信雄の伊勢・長島城の天守閣が焼け落ちるなど、畿内周辺、尾張、美濃、北陸方面では建物が倒壊し、多数の死者が出るなど大きな被害がもたらされました。
この「天正地震」は、まさに秀吉の勢力範囲で大きな被害が出たため、秀吉は出陣を延期し、しばらくは「家康成敗」を標榜しつつも、融和路線に切り替え、家康は危機を救われます。
秀吉との和睦
天正十四年(1586)正月二十四日、織田信雄(信長次男)が岡崎城を訪れ、二十七日には家康と対面し、秀吉との和睦をとりもち、家康は和睦調停に応じます。
秀吉は家康が和睦に応じたことにより、二月に家康を赦免します。そして、秀吉は二月三十日、真田昌幸ら反徳川勢力に停戦を命じます。
一方で家康は三月に、秀吉と和睦を結ぶにあたり、北条氏政と伊豆国三島(静岡県三島市)・沼津(同沼津市)で、二度に渡り会見します。
会見の内容は家康が秀吉に従属することの了承を得ること。交渉が決裂し、秀吉と対戦となった場合はあらためて援軍派遣を取り付ける内容であったと思われます。両者の同盟に基づいた関係を確認し合います。
さらに、秀吉は築山殿の亡き後、正妻がいなかつた家康のもとへ、四月に妹の旭姫を輿入れさせることを決めます。
ところが、家康が御礼に家臣の天野景能を遣わしたところ、秀吉は自身が知らぬ家臣を遣わしたと怒り、酒井忠次か本多忠勝、榊原康政を遣わすことを求めるとともに、旭姫の輿入れを延期させます。
家康は秀吉との関係を断とうとしましたが、使者として来ていた織田信雄の重臣・土方雄良がそんなことをしたら、仲を取り持った信雄が面目を失ってしまうと説得し、四月二十三日に本多忠勝を遣わしたといいます。
そして、旭姫は五月十一日に三河国知立で、徳川氏の迎えを受け、十二日に岡崎城、十四日に浜松城に入り、婚儀は十六日に行われました。
こうして家康は天下人秀吉の義弟となりました。
秀吉は家康の臣従に際して、離反した信濃国衆の真田、小笠原、木曾の三氏についても帰属させることも約束します。
しかし、真田昌幸はこれに従わず、秀吉への人質も差し出しませんでした。そこで、七月に秀吉は家康に「真田成敗」を許し、家康は出陣を進めます。
ところが、既に秀吉に臣従していた上杉景勝の取り成しによって、八月に真田氏を放免。家康による「真田成敗」も中止になります。
家康の上洛
十一月には正親町天皇の譲位式が予定されており、秀吉は家康に、臣従の証として一刻も早い上洛を求めます。
九月二十六日、徳川氏は岡崎城で上洛の返事を求める羽柴方の使者・浅野長吉(のちの長政)らを交えて協議し、家康の上洛を決めます。
家康は上洛要請に応じるにあたり、身の保証を求めると、秀吉は母・大政所を人質として差し出すことを決めます。
十月十八日、大政所は徳川方の迎えを受け、岡崎城に入ります。
家康は大政所の三河入りを確認すると、十月十四日浜松を発ち、上洛の途につきます。
二十六日に摂津国大坂へ着き、宿所である秀吉の弟・羽柴秀長の屋敷に入ります。
到着したばかりの家康を秀吉は歓迎し、その夜は秀長の屋敷を訪れて自らもてなしたといいます。
そして、翌二十七日、家康は大坂城に上がり、秀吉に謁見し、臣従を誓います。
この後、家康は京都に赴き、十一月五日には秀吉に従って参内し、正三位権中納言に官位を進めます。この官位は実弟・秀長と同位で、秀吉が義弟の家康を羽柴一門に匹敵する親類として扱っていたことがわかります。
そもそも家康は、前政権の織田政権において、すでに高い政治的地位に位置付けられていました。それは嫡男・信康が織田信長長女・五徳の婿という姻戚関係によっていました。それによって家康は、「織田一門大名」の立場に置かれていました。信康事件によってこの姻戚関係は解消されますが、家康の政治的立場は継続され、本能寺の変後では織田信雄、信孝に次ぐ地位に置かれていました。
そのため秀吉が家康を政権内に位置付けるにあたっては、信雄に次ぎ、秀永と同等の地位ほどにする必要があり、そのため家康を妹婿にしたという見方もできます。
(その後、天正十八年に信雄が失脚し、十九年に秀長が死去(旭姫は十八年に死去)すると、家康は諸大名筆頭に位置することになります。前田利家が次点についてくることになりますが、家康の政治的地位は他大名を凌駕し続けました。)
そして、家康は七日に正親町の譲位式に参列を果たし、八日には上洛による一連の活動を終え、帰国します。
なお、上洛前の天正十四年九月、家康は居城を浜松から駿府に移します。
秀吉の天下統一事業と惣無事令
話は遡りますが、天下十三年(1585)秀吉は関白となり、八月には四国・北陸の平定により「天下静謐」を実現し、天下の占有を成し遂げます。
なお、その後秀吉は「豊臣」に改姓しますが、これは関白任官に際して改めた藤原姓からの氏の改姓で、名字は終生「羽柴」のままでした。
秀吉は「天下静謐」の維持のため、各地の戦国大名・国衆との従属関係の構築に取り掛かります。
まず取り掛かったのが、九州情勢への対処でした。
本能寺の変が起きた頃、九州は豊後大友・薩摩島津・肥前龍造寺の三氏の勢力が鼎立していましたが、天正十二年(1584)三月に龍造寺隆信が戦死し、、信長によってなされた大友・島津両氏の和平が破れ、九州の政情は島津氏優位にありました。
このような中、天下人秀吉は両氏に停戦を命じます。ここに、秀吉による天下統一のための国内「惣無事」活動=「惣無事令」の発令が開始されます。
「惣無事令」とは、秀吉が国内統合事業である天下統一を進めるために、各地の大名・国衆に私戦の禁止を求め、紛争解決については秀吉に委ねることを求めた行動準則になります。
秀吉はこの行動準則を通じて、各地の大名・国衆との従属関係の構築を進めます。そして、秀吉による軍事征伐は、この行動準則に基づく最終解決手段として行使されました。
ところで、秀吉の停戦命令に豊後大友氏はすぐに応じ、薩摩島津氏は翌年の天正十四年(1585)正月にとりあえずの使者を秀吉のもとに遣わします。
秀吉は島津氏優勢の九州を豊臣権力・安芸毛利氏・豊後大友氏とともに領有する国分案を提示します。当然のことながら薩摩島津氏はこれには応じず、大友氏との戦争を継続します。
これに対して、秀吉は七月に大友氏を救援すべく「征伐」の意向を示し、長曽我部元親ら四国勢を先勢に、さらに毛利氏の軍勢にも出陣を命じます。
天正十五年三月一日に秀吉自らの出馬による九州征伐となります。
二十五日に赤間関(山口県下関市)に着き、ここで弟秀長が十五万余りで日向口から、秀吉自身は十万余りで肥後口から薩摩を目指すことを決めます。
島津氏は各地の戦いで敗れ、ついに五月八日に当主の島津義久が、薩摩川内(鹿児島県川内市)泰平寺の秀吉本陣に剃髪して駆け込み降伏します。
秀吉はこれによって島津氏を放免し、薩摩一国を安堵しました。
これらの秀吉の行動は「惣無事」政策に基づき行われました。
・私戦を禁じていたため、大友、島津両氏に停戦を命じます
・紛争解決は秀吉に委ねられるため、国分案を提示
・島津氏が拒否し、戦争を続けたため、秀吉による軍事征伐が行われた。しかし、島津氏が臣従した
ため大名としての存続は許した。
というように、順序立てて行わわれました。
秀吉の「惣無事」政策とは、諸大名の臣従化を図ろうとするものであり、まさに権力による平和でした。しかし、武力による討伐を当初から意図したものではなく、豊臣政権への出仕=臣従化があれば、大名しての存続が許されたのでした
家康への臣従を求める対処もこうした九州の情勢への「惣無事」活動と並行して進められ、家康に対する対応も「惣無事」政策に基づくものでありました。
秀吉は上洛を遂げた家康に、真田、小笠原、木曾の三氏を帰属させて、徳川領の「平和」を保証する一方、「関東・奥両国惣無事」を委ねます。
そして、この事を上杉景勝、下妻(茨城県下妻市)の多賀谷重経、岩城(福島県いわき市)の白土右馬助、米沢(山形県米沢市)の片倉景綱(伊達政宗重臣)に書状で伝えています。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
朝日新聞出版社 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
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