真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「家康成敗」へ至る過程とは?

徳川家康

【この記事に関連する場所】

①上田城、②信濃国分寺、③神川合戦、④沼田城、⑤岡崎城、⑥東部城、
⑦上宮寺、⑧勝鬘寺、⑨本證寺

信濃国衆真田氏の離反とその影響

 小牧・長久手の合戦は、緒戦の長久手合戦での勝利があったとはいえ、全体としては秀吉方が優位に推移し、とにもかくも和睦という形で終結しました。

 翌天正十三年(1585)になると家康の立場はとりわけ厳しいものとなっていきます。この年の後半に起こった第一次上田合戦と石川康輝(数正)の出奔は、家康にとってひときわ大きな試練となりました。

 秀吉による天下の掌握が進む中、家康は天正壬午の乱が終結した時の国割交渉によって決められた上野国沼田・吾妻両領の引渡しを求められます。
 両領を管轄する信濃の国衆真田昌幸がその決まりに従わなかったため、真田氏の従属先である家康に引渡しを求めてきたのです。

 家康は引渡しの指示を行いますが、真田昌幸は従わず、天正十三年(1585)六月徳川氏を離反し、三越後の上杉氏に保護を求めてしまいます。
 上杉氏は七月十五日に沼田・吾妻・小県三郡の知行を安堵するとともに、更科・埴科二郡やその他の所領を新たに宛がうとされ、敵方(徳川氏や北条氏など)からの軍事行動があった場合には、小県はもとより沼田・吾妻方面にも後詰めに出る、という旨が書かれた起請文を発行し、昌幸の従属を明らかにします。

 それに対して、家康は八月に、甲斐・信濃に配置していた重臣の鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世らに七千ともいわれる軍勢をつけて、真田氏の本城である上田城(長野県上田市:天正十一年(1583)四月に上杉氏への対抗と領国の平和維持のため昌幸が家康に築いてもらった城でしたが、徳川氏に抵抗する勢力の拠点となってしまいました)に派遣します。

 真田正幸は五百人ほどで上田城に籠り、その他、砥石城、矢沢城、飯沼城、丸子城、尾野山城など支城や砦に人員を配し、林や森などに不平を散開させて徳川軍の来襲を待ち構えていました。

 天正十三年(1585)八月二日、徳川勢は国分寺(上田市)での戦いで敗れ、撤退する徳川勢に対して砥石城から出撃した真田信幸が急襲。徳川勢は千曲川の支流・神川まで追い詰められ、川を渡ろうとしたところ急な増水で多数が押し流され、先の合戦と合わせて、徳川勢は一千三百余の兵士を失ったといわれます。

 北条氏も徳川氏の上田攻撃に合わせて、上野沼田(群馬県沼田市)を攻撃しますが、攻略できずに終わります。
 沼田問題については豊臣秀吉が裁定を下すことになります。
秀吉の裁定は沼田郷の内、利根川以東の沼田城を含む三分の二を北条方に、三分の一を真田方に分割するというものであり、昌幸が失った三分の二については家康が替え地を昌幸与えることが決められました。
 昌幸は伊那箕輪城を与えられ、沼田から撤退、代わりに北条方の猪俣邦憲が沼田城に入りました。

 この後、真田氏は対徳川氏に備えて、秀吉にも従属の意思を示します。そして、同時期に信濃国衆・小笠原貞慶も徳川氏を離反して、秀吉に従属します。貞慶のこの動きは真田氏の離反、第一次上田合戦の敗退によって、徳川氏が自らを保護する存在ではないとの判断によるものと思われます。

 こうした意識は連鎖し、徳川氏の信濃国における勢力圏は縮減し、その領有事態にも動揺が走り出しました。

宿老・石川康輝(数正)の出奔

 上田合戦から3ヶ月後の、天正十三年(1585)十一月十三日、徳川家宿老の石川康輝(数正)が、家族と、人質になっていた信濃国衆・小笠原貞慶の子を伴い、羽柴秀吉のもとへ出奔します。

 石川氏は譜代の家柄で、数正の叔父・家成の母親は、家康の実母・於大の姉でした。そのため家成は、家康が今川から独立した後は、西三河の旗頭として大きな力を持ちました。数正も幼い頃から徳川家に仕え、家康が今川の人質になった時にも随行していました。
 その後、叔父・家成にかわって数正は西三河の旗頭となり、東三河の旗頭である酒井忠次と並んで宿老として徳川の発展に貢献しました。
 数正は松平信康事件後、家康から岡崎城代を任され、家康から一字拝領し、三月に数正から康輝と改めたばかりでした。何故か・・・・・

 話しは遡りますが、天正十年(1582)六月、秀吉による越中・佐々成政の征伐が取り沙汰されるなか、家康と成政が通じて、秀吉に敵対しようとしているとの世評がたちます。
 この疑惑を取り除くため、織田信雄は家康に対して、既に秀吉のもとにあった義伊や康輝の子・勝千代(のちの康勝)とは別に、宿老から人質を出すように進めます。信雄のこの対応は秀吉にも伝わり、徳川氏に秀吉への臣従の意を示すよう催促のきっかけともなりました。
 この時、徳川氏内部で人質を差し出すように主張していたのが康輝で、康輝は秀吉との外交担当の取次を務め、秀吉に接する機会も多く、秀吉の偉大さも実感したためかもしれません。

 家康は天正十三年(1585)十月二十八日に家臣を浜松に集め、秀吉への人質差し出しの対処について協議し、人質の提出を拒否することに決します。
 また、同盟関係にあった北条氏との宿老間での起請文の交換により、今後の秀吉への対応(秀吉との対戦を覚悟し、北条氏との同盟を強化する)が確認されます。つまり、この問題は北条氏にも関わることだったのです。

 秀吉との政治関係の安定化に尽力していた康輝は政争に敗北し、徳川氏内部内部での自身の立場はおろか、今後の自家の政治生命が断たれることをも意味しました。また、本能寺の変の動揺の中、信濃国深志領の奪回を試みた時に、家康へ取り成して以来、政治的指導や後見にあたる指南の立場にあった小笠原貞慶の離反が、康輝の政策決定への発言力を失ったことにも影響したのか、孤立を深めていきました。

 康輝が出奔した翌日の十一月十四日には宿老の酒井忠次らが、十六日には家康自らが康輝が城代を務めていた岡崎城に赴き、事態の収拾を図っています。

秀吉の「家康成敗」

 康輝はその後、秀吉から一字拝領を受けて、実名を「吉輝」に改め、羽柴家の家臣として活動していきます。
 そして、徳川氏の人質差し出し拒否と、担当交渉者である康輝の出奔を受けて、秀吉は十一月十七日に「家康成敗」として、来春(正月)の出陣の意向を示します。

 これに対して家康は領国内の動揺の沈静化に務め、三河東部城(愛知県幸田町)などの普請を実施し、秀吉来襲への備えに追われることになります。
 十一月二十八日には織田信雄が織田長益・滝川雄利・土方雄良を岡崎城に派遣し、秀吉との和睦を勧告してきました。

 信濃国の真田、小笠原氏の離反や石川康輝の出奔といった動きの中、家康は領国において浄土真宗本願寺派の活動を許していましたが、三河一向一揆の後、追放されていた佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺の三ヵ寺などの還住(帰還)を許します。 家康は秀吉との緊迫した情勢のなかで、本願寺門徒を味方につけるべく、教団の禁制赦免と今後の活動の承認を行ったのです。

 「家康成敗」の出馬が実行されたならば、家康は秀吉によって軍事的に屈服させられ、仮に滅亡は免れたとしても、大幅に所領を削減され、どこかえ転封(国替え)されることになった可能性が高い。秀吉からの人質要求を拒み、敵対の色をあらわにしたため、家康は大変な危機に直面することになった。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク

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