源頼朝ゆかりの地を巡る ~房総半島~

史跡めぐり

房総半島にある源頼朝ゆかりの史跡をご紹介いたします。
下の地図の赤丸数字の場所をご紹介します。

地図の赤丸数字をクリックするとその場所のサムネイルを表示します。

①頼朝上陸の地

石橋山の戦いに敗れ真鶴町の岩海岸から出帆した頼朝は、安房国猟島(鋸南町滝島)に上陸したと伝わります。
安房の豪族・安西景益は頼朝を守るため自らの館に招き入れ、頼朝はそこから房総の有力豪族に手紙や使者を送り、味方を募って勢力を回復させました。
~~~~~頼朝とつのなしサザエ~~~~~
頼朝が竜島に上陸する際にサザエのつのでケガをしてしまいます。これに怒った頼朝が「竜島のサザエはつのなど無くなってしまえ」と怒鳴ったところ、竜島のサザエにはつのが無くなってしまったと言われます。
~~~~~頼朝がくれた姓~~~~~
頼朝は自分をもてなしてくれて村人に「わしが天下を取ったなら、安房一国をくれてやろう」といいます。村人は「粟なら畑で取れます。それより姓をください」といいました。頼朝は村人の欲のなさに「そうか、ばかだなぁ」といいました。
村人は姓をくれたものと思い「左右加」、「馬賀」となのるようになったと言われます。

千葉県安房郡鋸南町竜島165−1
駐車場有

②洲崎神社

『吾妻鏡』によると、頼朝は石橋山の戦いで大敗し、1800年(治承4年)8月28日、真鶴から安房国へと船出し、翌29日に平北群猟島に上陸(現在の鋸南町竜島辺りと伝えられている)。

9月9日、上総広常千葉常胤に参上するよう使者を送り、翌日5日、洲崎神社を参拝して使者が無事帰還した場合には神田を寄進するという願文を奉納している(9月12日には神田を寄進)。
1181年(治承5年)2月10日、洲崎神社領の年貢以外の夫役や雑税のを免除。
1182年(寿永元年)8月11日、北条政子の安産祈願のため安西景益を奉幣使として派遣している(翌日誕生したのが嫡男の頼家)。

千葉県館山市洲崎1344
駐車場あり

③下立松原神社(白浜町)

安房に上陸した頼朝は洲崎神社に参拝した後、下立松原神社に立ち寄り一夜を過ごしたと伝わります。
本堂に至る参道は思いのほか長く、厳粛な雰囲気が漂います。
下記の動画も合わせてご覧ください

最初の鳥居
階段を上っていくと

2つ目の鳥居が見えてきます

長い参道が続きます

参道の突き当りに狛犬が現れます。
この狛犬は寛政6年(1794年)に奉納されたものになります。

そして、本堂です

千葉県南房総市白浜町滝口1728
駐車場あり

④頼朝の隠れ岩屋

頼朝が武運再興の願掛けに訪れた際に、急に雨が降り出し雨宿りをした洞穴と伝わります。
現在、岩屋の中には深海に棲む創造の大蛸が海神として祀られています。
詳細は下記の動画もご覧ください。

千葉県南房総市白浜町白浜623−13 ホテル南海荘 前
野島崎公園西駐車場利用

⑤下立松原神社(千倉町)

下立松原神社は千倉町にもあります。こちらにも頼朝伝説があります。
この神社には鳥居がありません。これは頼朝がこの神社に参拝する際に、石橋山の戦いで負けた身であることから鳥居の脇から参拝しようとしたところ村人が鳥居を抜いてしまい、それ以後鳥居を立てていないと伝わります。
また、境内には頼朝が馬を洗ったと伝わる池があります。

千葉県南房総市千倉町牧田193
駐車場なし

⑥安楽寺(丸御厨)

頼朝は丸信俊の案内で丸御厨(まるのみくりや)を訪れたと言われます。
丸御厨は先祖の源頼義が前九年の役の恩賞として手に入れた地で、源義朝が為義から最初に譲渡された土地ともいわれます。
義朝は頼朝の昇進を願ってこの地を寄進します。その願いが叶い頼朝は蔵人頭に就任したと言われます。この地を訪れた頼朝は昔を思い出し、涙を流したと伝わります。

丸御厨は丸氏の菩提寺安楽寺付近にあったといわれ、頼朝は安楽寺にもお参りしたと伝わります。

千葉県南房総市丸本郷518−1
駐車場あり

⑦名熊の二本杉

この二本杉は「頼朝の箸杉」とも呼ばれ、頼朝がこの地で食事を取った際に使用した箸を地面にさしたところ、成長したと伝わります。
歴史はロマンですね・・・・・

千葉県いすみ市下布施4482
駐車場なし

⑧長福寺(筆掛けの槙)

長福寺は山号を「硯山」といい、頼朝が名付けたといわれます。
頼朝がこの寺を訪れた際に住職から山号がないこと聞き、名付けようと硯と筆を所望したしたところあまりに立派な硯であったので「硯山」と号したといいます。また、その際馬の嘶きが聞こえたため、この槙の木に筆を掛けて様子を見てくるように命じたことから「筆掛けの槙」と呼ばれるようになったと伝わります。これもロマンですね。

千葉県いすみ市下布施757
駐車場あり

⑨一ノ宮玉前神社

源頼朝が安房に逃れた際に上総広常が味方につきます。広常は2万の大軍を率いていたと言われ、このことで頼朝の優位性が確立されたといわれます。
しかし、その後謀反を企てたとして梶原景時に殺されます。
広常は玉前神社に鎧を奉納し、その鎧には願文が結び付けられていたといいます。
その願文には
 ・三か年のうちに、神田二十町を寄進すること
 ・三か年のうちに、万度の流鏑馬を射ること
 ・三か年のうちに。神殿の造営をすること
ということが書かれ、これらは「頼朝の気願成就と東国泰平のためのものであること」が記されていたといいます。
謀叛は濡れ衣だったのです。

千葉県いすみ市日在1831
駐車場あり

⑩亥鼻城と千葉常胤像

常胤は保元・平治の乱は源義朝に従い、頼朝が安房に逃れると直ぐに協力しました。
義仲・平家追討に参加し、壇ノ浦で平家滅亡後も九州に留まり、戦後処理にあたります。
奥州合戦にも参加し、頼朝の信頼もひときわ厚かった御家人の一人です。

千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目5−6
近隣に駐車場あり

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