源頼朝の圧力と義経の逃避行

源頼朝

頼朝の出撃

翌日の義経追討出立に備えて、勝長寿院での父・義朝の供養の後、侍所別当・和田義盛梶原景時が御家人の着到を記載し、2千人あまりが上洛軍として編成されました。

頼朝自身も富士川の戦いから5年ぶりに出撃し、かつて義経と面会した駿河国黄瀬川宿で京の情勢を確認します。
義経が武士の動員に失敗し、都落ちしたことを聞いた頼朝は鎌倉に戻ります。

平氏追討の際、西国武士が義経に従ったのは平氏に遺恨や敵対関係があったためで、義経が頼朝を討つ戦いに参加する動機がなかったためです。

義経の都落ち

義経は九州を目指し都落ちします。
1185年11月、義経は山陽、西海の荘園・公領の年貢・官物を徴収し京に進上する権限の付与を
後白河院に迫り、認められます。義経は「九州地頭」、行家は「四国地頭」に任じされます。

11月3日、義経一行は京に混乱を与えることなく、整然と退去します。摂津の太田頼基を打ち破り、範頼や家人の追撃をかわして、大物浦(兵庫県尼崎市)から船出します。
しかし、暴風雨に遭遇し、行方が分からなくなってしまいます。

守護と地頭の設置

頼朝は自身への追討宣下を下した後白河法皇との折衝を再開するため、北条時政を上洛させます。

時政は行家・義経追討の勅許を得ると、さらに全国に守護地頭を設置すること。地頭が反別五升の兵糧米を得ることを法皇に認めさせます。

この守護と地頭の設置をもって鎌倉幕府の成立とする考え方もあります。

義経の行方

頼朝は暴風雨で行方をくらませた義経一行が西国で反乱を起こす危険性を感じ、国地頭を設置します。

義経は大和国の吉野山で愛妾(しずか)と別れたあと、寺社の庇護を受けながら逃避行を続けていました。また、行家はかつての拠点和泉に潜伏しており、両者が大きな反乱を起こす可能性は低くなりました。
1186年5月和泉国の在庁官人日向権守清実(ひゅうがごんのかみきよざね)に匿われていた行家が殺害され、翌日には息子光家も殺害されます。

7月には義経の腹心とされる伊勢三郎能盛(義盛)も殺害されます。このように義経方の有力武将が相次いで討たれたことで、義経による大規模な反乱の可能性は極めて低くなり国地頭も廃止されました。
義経はなおも延暦寺、興福寺、院近臣(義経の使者を捕まえたことで判明)の支援を受けて、奥州平泉を目指して逃げ続けます。
             奥州平泉中尊寺▶

~~~~~安宅の関~~~~~
義経が武蔵坊弁慶とともに逃亡の過程で、山伏の姿に変装して加賀にあったと伝わる関所(安宅の関:石川県小松市)に差し掛かります。関守の富樫左衛門泰家に義経と見破られますが、弁慶の機転と泰家の同情で通過できたとする伝説が残っています。
株式の演目「勧進帳」は義経と弁慶を題材とし、歌舞伎十八番の一つです。

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