源頼朝 伊豆での生活の様子

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伊豆での配流生活

◆自由であった伊豆での生活◆
伊豆での頼朝は当初、伊東祐親(いとうすけちか)の監視下に置かれました。
しかし、10日毎に便りを通じて京の様子を知らせた三好康信や、お世話役に藤九郎盛長(後の安達盛長)を遣わし食料品や身の回りの品も届けた、武蔵国比企郡を地盤とする比企尼(ひきのあま)の支援を受けながら生活していました。
少年の頃は父・義朝の菩提を弔いながら読経に明け暮れていたようですが、比較的自由に生活していたようです。

伊東祐親娘 八重との恋愛、そして北条氏のもとへ

◆八重姫との恋◆
頼朝は祐親が大番役で京都警備に行っている間に、娘の八重(美人で評判であったらしい)と恋に落ち、千鶴丸という男の子をもうけます。
祐親が大番役を終え帰郷すると、二人の関係を知り激怒します。
そして、平氏にバレることを恐れて千鶴丸を川に沈めて、殺してしまいます。その上、八重は別の男と無理やり結婚させられ、頼朝も命を狙われるようになります。

◆北条氏のもとへ◆
祐親の次男・佑清(すけきよ)の通報で北条氏のもとに逃れることができました。
後に、祐親は挙兵した頼朝に捕らえられ、三浦義澄に預けられることになります。義澄の計らいで罪を許されますが、祐親は自ら恥じて自害します。

北条家との出会い

◆北条雅子との恋と八重の死◆
頼朝は北条氏のもとでも、北条時政の娘政子と恋に落ちます。(頼朝30歳、政子20歳)。
一方、八重も頼朝に一目会いたいとの思いから北条邸を訪ねますが、頼朝と政子の関係を知るとショックのあまり、近くの真珠が淵に身を投じてしまいます。

◆北条時政の決断◆
北条時政も頼朝と政子の仲を裂こうとしましたが、政子は頼朝のもとへ逃げてしまいます。この頃、頼朝は伊豆国蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)にいたといわれます。
時政は腹を決め、頼朝と共に歩むことを決断します。

伊豆の国とは

現在の静岡県伊豆半島と伊豆諸島の範囲。
平安時代前期に編纂された「延喜式」での格は下国(げこく)で、京からの距離は中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに三島市におかれていました。
古くから流刑地となり、頼朝が配流された当時は、後に平氏打倒に向けて以仁王と挙兵して敗れる源頼政が知行国主、長男仲綱(なかつな)が伊豆守でした。以仁王の乱で源頼政、仲綱が敗れた後、知行国主には平時忠、受領には息子の時兼が就任し、受領の代官である目代には山木兼隆が起用されました。
鎌倉時代には北条氏、南北朝時代から室町時代には上杉氏らが守護となり、戦国時代には後北条氏が支配したのち徳川家康の所領となります。

  • 延喜式:延喜式(えんぎしき)は平安時代中期に編纂された格式(律令の施工細目)で、
    三代格式の一つ。
  • 知行国主:一国の収益を得る権限を持ち、国主を推挙できた
  • 守:地方の行政長官
  • 受領:現地に赴任して行政責任を負う筆頭者

まとめ

伊豆へと配流になった頼朝は三好康信や比企尼の支援を受けながら、比較的自由な生活を送っていたと思われます。

監視役・伊東祐親の娘と恋に落ちますが、祐親にバレて北条氏のもとに逃れます。
そこで、頼朝の正室となる政子と出会います。

北条氏も頼朝への助力を決意し、頼朝の挙兵へと向かっていきます。

付録:源頼朝 伊豆ゆかりの地

※下記のYouTubeでは記事中の場所以外についても、伊豆にある源頼朝ゆかりの地をご紹介しています。是非、ご覧になってみてください。

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