【この記事に関連する場所】
①木曽谷 ②上原城 ③飛騨 ④伊那 ⑤高天神城 ⑥駿府城 ⑦懸川城 ⑧用宗(持舟)城
⑨久能城 ⑩江尻城 ⑪新府城 ⑫高遠城 ⑬岩殿城 ⑭天目山 ⑮安土城
⑯法華寺(諏訪市)
勝頼の動き
天正六年(1578)三月、越後の上杉謙信が急死すると、謙信の養子の景虎と景勝の家督争い(御館の乱)が勃発します。
勝頼は、小田原の北条氏政の依頼もあり、両者の調停に乗り出しますが、途中から景勝に加担します。これにより勢いを得た景勝は、景虎を敗死させ、上杉家の実権を握ります。
景虎は北条氏政の実弟だったので、氏政は激怒し武田氏との同盟を破棄、徳川と結びます。このため勝頼は、織田・徳川・北条を相手に厳しい戦いを強いられることになります。
勝頼の弱体化を見た家康は、天正八年(1580)秋、遠江国の高天神城への攻撃を本格化させます。
周囲の敵との戦いで、勝頼には高天神城へ後詰めに向かう余力は残されていませんでした。
天正九年(1581)正月、城将の岡部元信は徳川方に降伏を申し入れますが、信長の命もあり家康はこれを受けず、兵糧攻めを続けます。
二か月後の、三月に総攻撃を仕掛けると高天神城は落城、家康は遠江国一国を完全に掌握することになります。
高天神城を見殺しにしたことで、勝頼の威信は失墜し、武田領内の重臣や国衆たちの勝頼離れが加速することになります。
木曽義昌の離反
天正十年(1582)二月一日、信濃国衆の木曽義昌が武田氏から離反し、織田勢に下るという事件が起こります。
妻は武田信玄の妹であり、武田氏の一門衆(親族)であった義昌が織田勢についたことは、この地域における武田氏の影響力の低下が窺われます。
織田勢の出陣
これに対して織田信長は二月三日、嫡男の信忠に武田領への進軍を命じます。
信忠は配下の森長可と団平八を先鋒として木曽口から侵攻させ、十二日、自らも武田攻めの総大将として岐阜城を発し、十六日に岩村口から武田領に入ります。
また、二月三日には家康にも出撃命令が下ります。
家康は二月十八日、浜松城を出立して同日中に掛川城に入り、さらに二十日に大井川を越えて駿河国に侵入、田中城を落として、二十一日に駿河府中まで進みます。
信長は同盟関係にあった北条氏政にも、二月十九日に出撃要請を出します。
織田勢の進軍に対して、武田勢の信濃国衆の中からは織田勢に寝返る者が相次いで、現れ始めました。
穴山信君(梅雪)の離反
同二十九日、江尻城(静岡県静岡市清水区)の穴山信君(梅雪)は家康に味方になるとの意思を示し、織田信長の保護を求めてきました。
穴山氏は武田一門衆でしたが、駿河国と接する甲斐国巨摩軍南部を中心とした河内地域を統治する国衆でもありました。信君(梅雪)は武田氏の駿河領国化によって駿河国庵原郡へと勢力を拡大し、長篠の合戦後は江尻城の城代を務めていました。
しかし、武田氏の劣勢を前に、信君(梅雪)は自国の領土を守るために離反を決意しました。
徳川軍は信君ぼ服属により、その後ほとんど抵抗を受けることなく、興津を経て三月十日、甲斐国の八代郡市川(山梨県山梨市)に入ります。
信濃国諏訪(長野県諏訪市)へ出陣していた武田勝頼は、穴山信君(梅雪)の離反もあり、新府城(山梨県韮崎市)へ撤退を余儀なくされます。
信忠軍は、武田の諸城は戦わずして開城し、小笠原信嶺などの重臣も次地と降伏を申し出てきました。勝頼庶弟の仁科信盛が守る信濃高遠城(長野県伊那市)は抵抗しましたが、三月二日その信盛が戦死。高遠城も落城します。
信忠は休むことなく進軍し、翌日、諏訪に至ると、各地に放火。
さらに勝頼の籠もる韮崎の新府城を目指しました。
武田氏の滅亡
三月三日勝頼は新府城で迎え打つことを諦め、同城に火をつけ、態勢を立て直すべく都留郡へ向かいます。
武田氏の譜代家老衆で同郡の国衆・小山田信茂が離反し、岩殿城(山梨県大月市)に勝頼を迎え入れなかったため、勝頼一向は田野(山梨県甲州市)へ辿り着きます。
三月十一日、織田勢の宿老・滝川一益の攻撃を受け、勝頼・信勝父子と近臣は討たれます。
ここに武田氏は滅亡します。
勝頼は享年三十七歳、桂林院殿(勝頼継室)は十九歳、信勝は十六歳であったといわれます。
三月五日に安土城(滋賀県近江八幡市)を発した信長は信濃国を進軍中に勝頼・信勝父子の滅亡知り、十九日に諏訪の法華寺に入ります。
この地で信長は北条氏の訪問を受け、さらに織田勢の従属外交にあった関東・奥羽の大名・国衆に対して、織田勢の統制のもとで活動していくことが求められました。
これによって、関東・奥羽で織田信長に敵対する勢力は越後の上杉氏のみとなりました。
信長は三月二十九日、旧武田領の国割を実施。
滝川一益には上野一国と信濃国佐久郡・小県郡、甲斐一国(穴山信君の領地は除外)と信濃国諏訪郡は信忠の属将・河尻秀隆、同じく信忠付きの森長可が信濃国川中島四郡(高井・水内・更科・埴科)、毛利長秀は信濃国伊那郡、木曽義昌も木曽に加えて信濃二郡(筑摩郡・安曇野郡)を与えられます。徳川氏は遠江、三河二ヵ国に加えて、穴山信君を調略して武田氏から離反させたことで駿河国一国が与えられました。
家康は三ヵ国を領有する大名として発展を遂げます。しかし、論功行賞として信長から与えられてたという体裁は、それまでの同盟者としての関係が主従関係に近い形になったことの現れだと思われます。
信長は家康を取り込むことで東国への盾となってもらう必要がありました。しかし、武田氏が滅んだことで、家康の重要度はおのずと低下し、家康にとっても信長との関係が維持できるかという不安もあったと思われます。
家康は四十一歳になっていました。
まとめ
長篠の戦いに敗れた武田勢は木曽義昌、穴山梅雪といった重臣達も離反していきました。
圧倒的な軍勢を有する織田勢を前に信濃の国衆達も降伏していきます。
新城の新府城での戦いを諦めた勝頼は都留郡に向かいます。
しかし、ここでも譜代家老衆の小山田信茂が離反し、岩殿城に勝頼を迎え入れることはありませんでした。
勝頼一向は田野(山梨県甲府市)へ辿り着きますが、織田勢の宿老・滝川一益の攻撃を受け、勝頼・信勝父子と近臣は討たれます。
戦国時代の大名・国衆は自国防衛のための最善策を常に考えていました。
戦国最強といわれた武田勢も当主の死、ひとつの戦いの敗戦を通して滅亡します。
戦国時代とはこのような時代だったのです。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 月間歴史街道 令和五年七月号 小和田哲男著 最大の危機から五ヶ国
大大名へ ー
飛躍を支えたもの
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
ウィキペディア
コトバンク
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