【今回の記事に関連する場所】
①金崎城、②一乗谷城、③小谷城、④姉川古戦場、⑤野田砦、⑥福島砦、⑦海老江、⑧比叡山、
⑨宇佐山城、⑩高天神城、⑪二俣城、⑫浜松城、⑬三方原古戦場、⑭野田城、⑮長篠城、
⑯長野県阿智村
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元亀元年(1570)の動向
【正月】
この年の正月二十三日、信長は室町幕府第十五代将軍・足利義昭の権限を制約する五か条の条書を提出します。
・義昭が諸国へ書状を出す場合は、信長の書状を添えること
・天下のことは全て信長に任されたので、義昭の意見を聞くまでもなく、信長の考えて決済すること
等が記載されていました。
また、同日付け書状で、信長が禁中(天皇御所)の修理や将軍の御用などで上洛するので、諸国の大名にも上洛し、天皇や将軍に挨拶するように求めています。
【四月】
信長は将軍義昭のための二条城の竣工を見届け、四月二十日に若狭・越前の平定に向けて京都から出馬します。
まず、若狭の武藤氏を降ろし、ついで越前敦賀郡に入り、二十五日には手筒山城(福井県敦賀市)、翌日には金ヶ崎城(同前)などを攻略します。
さらに朝倉義景の一乗谷城(福井県福井市)に向かおうとしたところ、浅井長政逆心の報が入ります。退路を断たれることを恐れた信長は、金ヶ崎城に木下秀吉らを残し京都に戻ります。
【六月】
信長は浅井氏への報復のため、六月に入ると浅井氏の小谷城(滋賀県長浜市)攻めに向かいます。
二十八日に織田・徳川勢と浅井・朝倉勢の間で姉川の合戦が起こります。
織田を裏切った浅井勢の奮闘もあり激戦となりましたが、先鋒を願い出た徳川勢の活躍もあり、織田勢の勝利となります。
【七月】
七月になると、畿内では阿波から摂津に入った三好三人衆の活動が活発になり、野田(大阪府福島区)・福島(同前)に砦を構えます。
【八月以降】
信長は八月二十五日、義昭は三十日に京都を発ち、九月十二日に海老江(同前)に陣を取り、両砦への攻撃を行います。しかし、同日夜に大坂本願寺が三好三人衆と通じて兵を挙げ、さらにこれに呼応して浅井・朝倉勢が南近江に進軍してきました。
挟撃されることを恐れた信長は二十三日に義昭とともに京都へ撤退します。
二十四日に信長は近江に兵を出しますが、朝倉勢は比叡山(滋賀県大津市)に逃れます。宇佐山城(同前)に陣取る信長と浅井・朝倉の比叡山とのにらみ合いは、十二月半ばま続きました。
そこで、十二月になると朝廷や将軍義昭の働きかけ、両者の間に和睦が成立します。
将軍・足利義昭は九月十四日付けの書状で、家康に大坂での戦況を伝え、信長は無用だといい、家康の参陣を求めてきました。
家康は実際に参陣し、義昭の要請に応えています。
元亀元年(1570)は家康にとっても信長との同盟関係のみならず、義昭からの要請もあって三度も上洛・参戦することになり多難な年でありました。
武田氏との本格的な対立の始まり
武田信玄は、駿河国の領有をめぐって対立する相模の北条氏康・氏政父子が越後の上杉謙信との同盟(越相同盟)を求め対戦していこうとする事態に、信長を通じて将軍義昭に上杉氏との和睦を働きかけ、永禄十二年(1569)七月に「甲越和与」を成立させて、危機をしのぎ、北条氏との対戦を続けていく姿勢を見せます。
しかし、「越相同盟」が成立すると「甲越和与」の交渉は破綻します。
すると徳川家康は上杉謙信に近づきます。(織田信長と上杉謙信は永禄七年に同盟を結んでいた)
この時の家康の戦略は北条氏、徳川氏、織田氏、上杉氏で武田氏を囲いこむことにあったと考えられます
このことは武田氏にも家康に対する不信を募らることになり、両者の関係は悪化が進みます。
そして、元亀元年(1570)十月、越後上杉氏とも同盟が成立します。
一、信玄に手切れすることを家康は深く思いつめているの、決して態度を変えたり裏切ったりすることはない。
一、信長と謙信が入魂になるようにできるだけ助言し、武田家と織田家の縁談についても破棄になるように意見する
徳川は武田との関係を絶ち、信長と謙信の関係を深めることに尽くし、武田・織田の縁談(信長嫡男・信忠と信玄五女・松姫の縁談)を破棄させることを約束します。
一方、駿河国に侵攻した武田氏は、当初北条氏の攻勢に苦慮していましたが、しだいに駿河国の領有を確固なものとしていきます。
北条氏は同盟関係から上杉氏に応援を要請しますが、複雑な同盟関係から上杉氏は動くことができませんでした。
すると、北条氏内部にも武田氏と同盟を結ぶ機運が生じ、元亀二年(1571)十月北条氏の最高権力者氏康が死去したことを契機に、同年末に当主の氏政は上杉氏を手を切って武田氏と同盟を締結します。
この同盟により、信玄は駿河国の領国化を成し遂げるとともに、東からの脅威が消滅した信玄の行動を大きく変えることになります。
さらに信玄は越後上杉氏に対抗するため、信長と敵対する大坂本願寺や越前国の朝倉義景との関係を深めていきました。
信玄は元亀三年(1572)七月には武田領との境目に位置する奥三河国衆の作手奥平定能・田峯菅沼刑部丞(ぎょうぶじょう)・長篠菅沼右近助ら山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)、遠江国衆の犬居天野藤秀が徳川から武田へ従属先を変ます。
そして、信長との対決も覚悟し、九月には木曽義昌の家老・山村良利を通して飛騨の国衆を調略し、美濃郡上の遠藤勝胤も従属させ、領国を拡大していきました。
この信玄の行動に対して信長は、信玄と謙信の和睦の仲介をしていたのもかかわらず、手のひらを返して敵対してきたのは、「前代未聞の無道」であり、「侍の義理を知らないものだ」と酷評しています。
これにより、織田。徳川両氏と武田氏の対立は避けられないものとなっていきました。
家康は信玄と既に手切れしているので、信玄から侵攻を受けることは覚悟していたにちがいない。
しかし、この時の状況は、信長は朝倉・浅井両家や本願寺との抗争の追われ機内に釘付け、北条氏は武田氏と同盟を結び、さらに上杉氏は北条氏と武田氏両面での軍事行動を強いられる状況となっていました。
つまり、家康は信玄に対して孤立した状況となっていました。
武田氏の遠江侵攻
元亀三年(1572)十月三日、信玄は「三ヶ年鬱憤」を晴らすとして約二万(三万との説も)の軍勢を率いて甲府を発し、徳川領・遠江への侵攻を開始します。
「三か年の鬱憤」を晴らすとは
家康が上杉氏と同盟関係を結び、武田氏との外交関係を断ち、信長にも武田氏との同盟関係を断つことを働きかけたことで、武田氏を敵対勢力によって囲まれる状況に追いやった徳川氏への報復であり、この侵攻の第一義的な目的が対徳川氏であった
〈通説の信玄進軍ルート〉
信玄の出発に先立ち、秋山虎繁率いる五千の軍勢を信長の本拠地・美濃へ侵入させ、信長の五男・御坊丸を奉じた信長の叔母が守る要衝・岩村城を十一月十四日に落とし、美濃方面からの信長勢の侵入を防ぎます。さらに、山県昌景率いる五千を東三河に派遣し、徳川勢の兵力分断を図ります。
信玄の本隊は伊那から青崩峠を越えて一気に南下し、犬居城で軍を二手にわけ、別動隊を只来へ向かわせ、信玄は天方、一宮、飯田と徳川方の城を落としていった。
家康は、三千の兵を率いて偵察を敢行します。しかし、袋井あたりで発見され、激しい攻撃を受けます。家康は早くに退きましたが、一言坂付近で武田勢に追いつかれ本多忠勝の活躍で難を逃れますが、大敗を喫するところでした。
〈最近支持を集める信玄の進軍ルート〉
信玄本隊は駿河国方面から大井川を越えて遠江国に侵入し、高天神城(静岡県掛川市)の攻撃を経て、遠江国中央部ヘ進みます。山県昌景・秋山虎繁の率いる別動隊は信濃国から遠江国を経て三河国ヘ侵攻したのち本隊に合流し、遠江二俣城(静岡県浜松市天竜区)への攻撃を行ったとされます。
また、信玄本隊とは別に山県正景らが率いる別働隊があって、彼は信濃を通り、青崩峠を越えて三河に入り、野田城(愛知県新城市)を攻撃したあと、遠江に移って本隊と合流したとされています。
この時信長は、信玄の要請に応えて、上杉謙信との和睦の調停を行っているところで、この遠江への侵攻を知ると
「信玄の所行は前代未聞の無道さであり、侍の義理を知らず都鄙(国中の意)の嘲弄を顧みないもので、遺恨は尽きることはない。今後は未来永劫にわたり、信玄とは二度とふたたび相通ずることはない。」といって上杉謙信と同盟を結びます。
この信玄の侵攻に対して、室町幕府将軍足利義昭も家康に御内書(将軍が発給する公的な書状)を遣わし、信長・家康支持の立場を示します。さらに、家康は信長からは平手汎秀(ひろひで)・佐久間信盛・水野信元ら三千の援軍を得ます。
三方原の戦い
信玄は、元亀三年(1752)十月半ばから包囲していた二俣城を、十一月晦日に攻め落とし、十二月二十二日の早朝に出陣します。
この時点で徳川方として残っていたのは、遠江では掛川城、堀江城、浜松城、三河では岡崎城、吉田城、田原城などに過ぎなくなっていました。
(この時、家康が選択した作戦は二俣城に防御の兵を集中させ武田勢を足止めする作戦。その間に織田信長に救援を要請し、浜松城で籠城し防衛する作戦だったのではないかという考えもあります)
当初は徳川氏の本拠のある浜松方面を目指しましたが、欠下の大菩薩山辺りで西に転じて三方原大地に上がり、そのまま三河方面(堀江城攻略)に向かう構えをみせました。
信玄は家康が籠城したままで武田軍をやり過ごすことはないだろうと見越して、味方の犠牲も大きい攻城戦を避けて、野戦を挑もうと考えていました。
一方、家康は武田勢の攻撃目標は本城の浜松城と考え籠城戦に備えていましたが、家臣の反対を押し切り、攻撃に討って出る作戦に改めます。
三方原台地の端の祝田の坂を下る武田軍の背後を突こうと、織田方の加勢三千を加えた一万余りの軍勢を率いて、二万五千ともいわれる武田軍に対して出陣しました。いわゆる三方原の合戦です。
この時の様子を
「三河物語」では
戦うと宣言した家康に対して、家臣たちは「敵の人数を見ると、三万余りはいます。しかも信玄は数多くの合戦を経験した老武者。対して御味方はわずか八千です」と出陣に反対した。
しかし、家康は「我国をふミきりて通るに、多数なりというて、などか出てとがめざらん哉。兎角。合戦をせずにハおくまじき。陣ハ多数・無数にハよるべからず。天道次第」と公言したといいます。
「松平記」では
「武田の大軍を見て腰が抜けたのか。目の前の敵をおめおめと通すのは口惜しい」と出陣を宣言しています。
「当代記」では
三方ヶ原を進軍する武田軍を、徳川方の十騎、二十騎が攻撃し交戦状態となったので、家康はこれを救援するために浜松城を出陣。思いがけずに武田軍と合戦になったとします。
上記が通説となっていますが、堀江城は浜名湖に面した湖上にあり、三河国との浜名湖水運による人・物流の進路確保における要衝のひとつでした。
武田軍によって堀江城を押さえられることは(浜名湖水運を押さえられてしまうことは)、三河国からの補給と退路を断たれ、徳川家の存続に関わる「死活問題」となってしまう懸念をぬぐいさることができず見過ごせなかったと、現在では考えられています。
(一般に、城を防御する敵を攻撃するには防御する側の三倍から五倍の兵力が必要といわれ、信玄としても野戦に持ち込みたかった。そこで、わざと背後を晒して家康を城からおびき出したともいわれます。織田信長が朝倉義景を攻めた時の浅井長政、長篠合戦の時に野戦に持ち込まれた武田勝頼のように、背後を攻めるチャンスが来ると武将は動いてしまうのです)
しかし、織田・徳川勢が三方ヶ原に着くと、武田勢は祝田の坂を降りずに、魚鱗の陣形にて家康を待ち構えていたといわれます。
戦闘は申の刻(午後四時頃)から武田軍が飛礫(つぶて)を投げ、それに織田・徳川連合軍が応戦したことから始まったといわれます。
合戦自体はおよそ二時間程であったといわれます。緒戦では徳川軍が武田軍を押し込む場面もあったようですが、その後は多勢に無勢で一蹴され、家康は浜松城へと逃げ帰りました。
徳川軍は多くの家臣を失い、織田方の加勢衆では平手汎秀が討ち死にしました。
「徳川実記」のよると、三河一向一揆で反逆しながらも帰参を許された夏目吉信は浜松城にいましたが、味方の敗北を知ると手勢を率いて家康のもとへはせ参じ帰城を勧めます。
家康がここで討ち死にすることを主張すると、家康の馬の口をつかみ側にいた畔柳武重に退却のお供を命じます。吉信は自らを家康だと名乗り、激しい戦いのすえ命を落としたといいます。
武田信玄の死
その後、信玄は浜松城の堅固な守衛を見極めたうえで、浜松周辺に火を放つなどした後、堀江城の攻略に向かいますが同城の守衛も堅固で攻略することはできず、刑部(おさかべ)(静岡県浜松市北区)で越年すると、そのまま三河に向かいます。
信玄は奥三河で徳川方の立場をとり抵抗を続けた国衆・菅沼定盈の野田城を囲み、元亀四年(1573)二月半ばに攻略すると軍勢を引き揚げます。
信玄は肺患とも胃癌ともいわれる病を患っていたといわれ、この頃病状は相当悪化して、これ以上の行軍に耐えられなくなっていたようです。
長篠城でしばらく滞在し、甲府へ向かう途中の四月十二日に信玄は信濃国駒場(長野県阿智村)で五十三歳の生涯を閉じます。
信玄の出撃の目的は遠江での家康、美濃での信長という、二つの境目相論(境界を巡る紛争)対処するための出陣であり、まず遠江・三河に侵攻し、蹂躙して後顧の憂いをなくし、東美濃に向かい、信長との対決を目指したのではないかとの説があります。
家康は野田城に籠城していた菅沼定盈の要請を受けて、野田城郊外にある笠頭山に着陣します。しかし、武田軍と合戦をする余裕はなく、やむなく東三河の吉田城に入り、在城していたと思われます。
三方原合戦がもたらした事態
武田軍の勝利は、武田氏と同盟関係にある大坂本願寺と朝倉義景、浅井長政らの反信長勢力に勢いをもたらし、織田信長・徳川家康を支持していた将軍足利義昭とその周辺にも動揺を与えることになりました。
義昭は、信玄へ信長・家康との和睦を促しました。しかし、信玄は義昭の要請を拒絶し、信長・家康を討伐して、「天下静謐」に努める意向を示します。
この事態に義昭とその集権派京都退去の用意を始める有様でありました。
元気三年(1572)末に信長は動揺する義昭に異見書を提出し、天下人としての姿勢や振る舞いを正すように諫言します。
義昭とその周辺からすれば、義昭政権を危機に追いやった信長の手腕を疑われ、異見書の提出を機に義昭と信長の関係に亀裂が入ることになりました。
元気四年二月、将軍義昭は信玄・朝倉義景の働きかけに応じて、信長への敵対の意思を表明し、反織田氏勢力に予する態度を示します。
ここに義昭を盟主とした反織田連合が成立し、信長と義昭を盟主とする反織田連合との対立に発展します。家康もまたその対立構図に巻き込まれていくことになります。
しかし、前述の信玄の死を受け、信長は反撃に転じ、一端は和睦したものの七月に再度挙兵義昭を京都から追い出し、八月に朝倉氏、九月に浅井氏を滅ぼし、反織田連合を崩していきます。
家康も、織田家へ対武田氏に備えて政治的・軍事的保護を求めて一層従属を深め、対武田氏との争いに努めていきます。
武田氏は当主・勝頼のもとで将軍義昭らの反織田勢力と連携し、織田・徳川氏との対戦を続けていきます。
両軍は以後10年に渡り、対戦を続けていきます。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合 敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社幻冬舎 平山優著 徳川家康と武田勝頼
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦禄 戦下手か戦上手か
株式会社河出書房新社 本郷和人著 徳川家康という人
朝日新聞出版社 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
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