松平信康事件の真相とは?

徳川家康

今回の記事に関連する場所

①浜松城 ②岡崎城 ③高天神城 ④西来院 ⑤大刀洗の池 ⑥二俣城 ⑦西尾城 ⑧堀江城

通説での事件の内容

 遠江国への領国拡大に伴い元亀元年家康は本城を遠江浜松城へと移し、信康が岡崎城主となりました。信康の母・築山殿は家康と不仲であったために、築山殿は浜松城には移らず信康とともに岡崎城にて暮らしていました。

 高天城攻略中の天正七年(1579)八月四日に家康が岡崎城主の嫡男・松平信康を追放し、ついで幽閉し、同時に家康の正妻で信康の生母であった築山殿を幽閉したことにはじまり、同月二十九日に築山殿を自刃させ、九月十五日には信康が二俣城(浜松市天竜区)で自刃させられるという事件が起こります。

二俣城(静岡県浜松市天竜区)

 具体的に把握できる事柄は、天正七年七月に家康は筆頭家老の酒井忠次を安土城の織田信長のもとに派遣して、信康は「不覚悟」であるからとして、信長から信康追放について了解をえて、信康を追放した、ということにすぎません。
その実態はいまだ十分には解明されておらず、これまでの通説的な見方は以下の通りである。

 信康の正妻・徳姫が信康や築山殿のよくない行いを十二か条にわたり列挙し、これを酒井忠次に持たせて父の信長に訴えます。
 信長が忠次に問いただしたところ、十か条までを認めたので、あとの二条は聞かずに「老臣がすべて承知しているということならば疑いない。これではとてもものにはならないから、腹を切らせるように家康に申せ」といわれます。
 忠次からこれを聞いた家康は「忠次がいっさい弁明しなかった以上、腹を切らせるしかない。今は大敵を抱えていて、信長の命令に背くことはできない」とし、やむなく処罰に踏み切ったというのである。
 以上がこれまでの通説であるが、あまりにも作られた話のような・・・

事件の推移

 天正七年六月、家康は岡崎城を訪れています。信康と五徳の「中直し」にあたったといわれていますが、五徳に信康処罰の了解をうるためだったとの考え方もあります。
 この年の四月に三男・秀忠が誕生しており、この時点で信康への処罰を決断したと思われます。

 七月、信長に信康処罰を申請します。信長からは「家康の存分次第にしてよい」と了解を得る。
家康は信長の従属大名の立場にあったたため、信康の処罰、それにともなう信康廃嫡について信長から了解を得る必要がありました。

 八月三日家康は岡崎城に赴いて、翌四日に信康を岡崎城から追放し、大浜(碧南市)の幽閉。

 八月五日三河衆を率いて西三河に進軍。(家康は西三河州に信康支持派が存在する可能性を想定していた)
 六日には岡崎城の臨時の存城体制を決ます。
本状には松平康忠と榊原康政、北城には松平清宗と鵜殿康孝を在城させました。

 八月九日、信康を堀江城に移して幽閉。十日に家康は三河衆から、信康に内通しないことを誓約する起請文を徴収する。

 八月十三日、家康は浜松城に帰還。岡崎城には新たな城代として本多重次を派遣します。

 八月二十九日築山との死去(自害と思われる)、九月十五日信康死去。

 信康が死去したのは岡崎城を追放してから一ヵ月以上経過してからのことでした。
家康は幽閉を続けていればよいと考えていたのではないでしょうか。
 信康が死去した九月十五日に、信康が最後に幽閉されていた二俣城近辺で、徳川全軍が終結することになっていて、不穏の事態を未然に防ぐために自害を命じることになったかもしれません。
また、築山殿は幽閉され続けることを拒否し、自ら命を絶ったのであろう。

事件の新しい真相

 これに対して現在では新たな研究が進んでいます。
事件の真相は粗暴だといわれてきた信康の資質と徳姫の不仲にあったとも考えられます。

◆信康の資質 
 僧侶と出会うと鷹狩りで獲物が捕れないという言い伝えがあったが、鷹狩りの向かう途中僧侶に出会うと、その僧侶を馬の脇に結わえつけて縊り殺した。また、町で踊りが催された際、信康は踊りが下手だといって弓で射殺したりと荒れた行為が見られ、武勇には優れたようでしたが、慈悲に乏しい武将とされていた(「松平記」)。

◆徳姫との不仲
 徳姫との仲についても、当初から仲が悪いわけではなく、天正五年(1577)頃から不仲になったといわれています。
 天正四年二人の間に女子が誕生した際、信康も築山殿もそれほど喜ばなかったといい、翌天正五年にまた女子が誕生すると立腹したといわれており、これが不仲の原因となったといわれます。

 天正七年(1579)六月五日には家康が「仲直し」のため浜松から岡崎に出向いたが不調に終わり、家康は決意を固め、七月から九月にかけて一気に決着を図ったというのです。

 家康は七月十六日に酒井忠次を使者として信長のもとに遣わし、信康処分の方針を伝え了解を求めました。
 信長は家康の思いどおりにするようにと返答しました。
信康の処分の決断は信長の指示に従ったものではなく、家康が苦渋の決断をしたということです。

事件のもう一つの側面

 この事件のもう一つの側面は信康や築山殿の周辺に謀叛を疑われる事態があったということです。

 今川氏とゆかりが深く、家康と不仲であった築山殿には、武田方からみれば付け入る隙があったのでしょう。
 天正三年(1575)になって、甲斐の口寄せ巫女(神仏の意思を語る巫女)が岡崎領に大勢きていて、それに付け込こんで武田勝頼が、巫女を懐柔して築山殿に取り入らせ武田家に味方する吹き込みます。そして、築山殿は信康家臣中枢に働きかけた可能性があります。
 それが大岡弥四郎事件(岡崎奉行の大岡弥四郎が謀叛を企て、岡崎城に武田勝頼の軍勢を引き入れたうえ、家康・信康を討ち取ろうと企てた)につながったというものです。

 この時期、徳川家の存亡は危機的な状況に陥っており、築山殿が徳川家の滅亡を覚悟するようになっていたことも考えられます。
 築山殿にとっては、夫の家康よりも嫡年信康のほうが、はるかに大切であったことに違いありません。そのため武田方の働きかけが有効であったともいえると思います。

 また、この謀叛は家康との敵対行為のみとは限りません。上杉氏の後継争い(御館の乱)から北条氏とも敵対することになった武田氏は、東西方面を敵対勢力で囲まれ、挟撃を受ける恐れが生じていました。武田氏内部では織田信長との講和(甲江和与)交渉を進めていることから、徳川氏との敵対継続を見直し、接触を試みたことも窺われます。
 (家康を中心とした浜松勢は北条氏からの接触もあり、対武田氏強硬論であったといわれています)

 築山殿は弥四郎事件の際には罪を逃れたものの、再度の謀叛の疑いで、女性ではありましたが生害を免れなかったのでしょう。信康もどこまで主体的であったかどうかはともかく、築山殿と連動する動きがあり、それが謀叛の疑いということになっては、同じく成敗を免れなかったといえるでしょう。

 あるいは大岡弥四郎事件(天正三年(1575)四月)で築山殿の関与は明確であったが、武田勢の侵攻を控え、弥四郎処刑という形で、できるだけ小事件化しておき、軍事状況が好転した後年に責任を取らせたという説もあります。

 さらには、家康と信康の不仲説もあり、松平信康事件についてはいくつもの新説が登場しています。
嫡男の信康を失ったことは、家康にとっては痛手であり、家中も動揺したはずであり、大きな事件でした。
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のちの「関ヶ原の戦い」のときに、家康は「もし倅(せがれ)がいたら俺もこの歳で戦場に
出るような苦労はしないで済んだのにな」と漏らした。
家来は「倅様は今、東山道を経由してもうちょっとで関ヶ原につきますよ」と答えると、
「そちらの倅ではない」といったという逸話があります。
つまり、家康にとって息子とは信康のことで、大切な跡取りという思いを持っていたのです。
(家康は子供の多い人でした。しかし、浜松にいた当時の家康は側室もほぼ持っていません。ひとりだけ確認できる人が西郡局(にしこおりのつぼね)という女性で、この人が浜松在城当時の唯一の側室で、家康は彼女との間に娘をひとりつくっているだけです)
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 しかし、事件後まもなく武田勝頼が凋落しはじめ、やがて滅亡したことで、家康は閉塞状況から解放されることになります。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社河出書房新社 本郷和人著 徳川家康という人
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク

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