信長の帰還
【甲州征伐後、信長の安土城への帰還ルート】
①甲府市、②左右口(甲府市)、③本栖(市川三郷町)、④大宮(富士宮市)、⑤江尻城、
⑥田中城、⑦懸川城、⑧浜松城、⑨吉田城、⑩池鯉鮒、⑪清洲城、⑫岐阜城、⑬安土城
旧武田領の国割を終えた信長は甲斐国甲府(山梨県甲府市)に移り、仕置(統治処理)を見届けた後、四月十日甲府を発ち、東海道から家康の領地を通り帰路に着きます。
十日は左右口(山梨県甲府市)、十一日は本栖(市川三郷町)、ここから駿河に入り十二日は大宮(静岡県富士宮市)、十三日は江尻城(静岡市清水区)、十四日は田中城(藤枝市)、ついで遠江に入り十五日は懸川城(掛川市)、十六日は浜松城、さらに三河に十七日は吉田城(愛知県豊橋市)、十八日は池鯉鮒(知立市)、その後は織田領で十九日は尾張の清須城、二十日には美濃の岐阜城、そして二十一日に近江安土城へ凱旋します。
その際、家康は道中の安全はもとより、家臣に命じて領国内の街道・橋梁の整備や宿営を調え、食事にも贅を尽くして、饗応にもつとめ、信長を大いに満足させるものでした。
信長の配下では地域が領国に併呑された際、その帰属と平和的統治を表すため街道・橋梁の整備を実施しました。
家康もこれに習い、従属する親戚大名として作業に従事しました。
本能寺の変
◆天正十年(1582)
- 五月十一日
家康は信長の招待を受け、穴山信君(梅雪)と安土城に向けて出発します。
同行した家臣は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らでした。 - 五月十五日
安土城に到着した家康に対して、信長は惟任(明智)光秀を接待役に命じて、手厚くもてなします。 - 五月二十日
大接待では、信長自ら膳を据えるほどの歓待ぶりであったと言われます。 - 五月二十一日
家康は信長の勧めもあり上洛し、京都・大坂・奈良・和泉国堺などの畿内を見物に出掛けます。 - 五月二十六日
惟任(明智)光秀が家康の接待役を解かれ、中国筋への出陣を命じられて、坂本(滋賀県大津市)を経て、丹波亀山城(京都府亀山市)に入る。 - 五月二十七日
愛宕山(京都市右京区)へ参詣。 - 五月二十八日
西坊で連歌の会を催します。
その発句は光秀で「ときは今あめが下知る五月哉」と読み、西坊(行祐)と里村紹巴らが続いて百韻(100句を連ねたもの)を神前に籠め置きました。 - 六月一日
夜、重臣らに謀叛の決意を語り、亀山から中国筋の三草越えには向かわずに、東の老の山に上がり、それを左に下って桂川を越え、二日の明け方近くに京都に入りました。 - 六月二日
本能寺の変。
わずか二、三十の小姓衆を連れただけの信長は抵抗するすべもなく、四十九歳で生涯を閉じます。
後年の回想録「本城惣右衛門覚書」によれば、従軍した惣右衛門はなぜ京都に向かったのか不審に思い、家康を討つためかとも思いましたが、まさか敵は本能寺とは思いもしなかったといいます。
妙覚寺にいた嫡男・信忠も二条御所に移り、抵抗しますが、自刃して果てます。
光秀の行動には新説もあります。
- 重臣の斎藤利三が兵を率いて昼頃に亀山城に入った際に、謀叛の決意を伝えられた。
- 夜中に桂川の河原に到着したところで光秀は兵糧を使うように命じ、その際に本能寺に取りかかることを物頭が軍勢に伝えた。
- 実際に本能寺に向かったのは斎藤利三らの二千騎余であり、光秀自信は本能寺には向かわず、鳥羽(京都市南区・伏見区)で待機していた。
(利三の三男で本能寺の変にも関わっていた利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったといいます。)
このクーデターの背景に関しては諸説ありますが、信長の中心とした織田勢と惟任(明智)光秀との間に政治運営に関して何かしらの対立があったのでしょう。
伊賀越え
家康と信君(梅雪)の一行が信長の側近・長谷川秀一・西尾義次らの案内で堺に入ったのは天正十年(1582)五月二十九日のことでした。翌六月一日には津田宗及の茶会が催され、また堺代官・松井有閑らの接待を受けます。
二日朝、家康一行は堺より上洛すべく出発しました。
そのため、本多忠勝を先に使者として京都へ遣わせたところ、枚方(大阪府枚方市)付近で商人の茶屋四郎次郎に出会い。本能寺で信長が討ち取られたことを知らされたと言われます。
そこで忠勝は家康のもとに取って返し、堺を出たばかりの家康は飯盛八幡(四條畷市)付近で伝えられたと言います。
家康は当初このまま上洛して知恩院で追腹(殉死)しようとしましたが、本多忠勝ら重臣たちの意見で思いとどまり、三河に帰って弔い合戦を行うことを決意します。
(なぜ知恩院か?、同寺を隆盛させた存牛上人が松平家出身であり、光秀の手にかかるくらいなら、先祖の導きで極楽浄土へ赴かんと願った。
家康には窮地になると自殺願望を抱く悪癖がある。
桶狭間の戦いでは、大樹寺での自刃、三方ヶ原の戦いでは潔く討死にすると叫ぶ・・・)
こうして、家康は上洛を取り止め伊賀からの帰国を試みます。家康の「三大危機」に数えられる「伊賀越え」の始まりになります。
- 六月二日
堺→平野→阿倍→山のねき→穂谷→尊延寺→草地→山城国宇治田原(京都府宇治田原町)に着き山口光広の館に宿泊。(十三里の工程) - 六月三日
宇治田原→山田→朝宮(滋賀県甲賀市)を経て、小川村(同前)に至り多羅尾光俊の小川城で一泊。(六里の工程) - 六月四日
小川→向山→伊賀国の丸柱(三重県伊賀市)石川、河合、柘植を経て、伊勢国の加太(亀山市)に出て、関からは東海道で亀山、庄野、石薬師、四日市(四日市)に至りました。
さらに白子(同前)に出て、船で出航します。(十七里の工程) - 六月五日
知多半島の常滑を経て、三河国大浜(愛知県碧南市)へ出て、岡崎城に帰還しました。
この道中で家康は率いていた兵のうち二百人余を討たれたと言われます。
また、当初は家康と行動を共にしていた穴山信君(梅雪)は、やがて一里(4Km)程遅れるようになります。理由としては家康の行動を疑っていたふしがあるといわれています。
(人数を引き連れ、「目立つ」家康を囮とするためで、家康亡き後は武田領を取り戻し、徳川の版図も手に入れて、信玄以上の郷国を築こうとしたとの説もあり)
そして、宇治田原で地元民の落ち武者狩りにより討たれます。
家康の伊賀越えのもう一人の功労者は服部半蔵正成といわれます。
父・保長は伊賀の出身であり、半蔵は父の故国である伊賀の土豪や忍たちのもとに出向いて協力を求め、忍二百人を動員して家康を守護させました。
伊賀の人々が協力したのには別の理由があるといわれます。
前年の信長による伊賀攻略(天正伊賀の乱)で、信長が領民を殲滅しようとしたのに対して、家康は三河に逃げ込んだ人々を助けただけでなく、扶持(ふち)を与えて家臣にしてくれたので、それに感謝して逃避行に協力したといわれます。
信長の弔い合戦を目的とした家康の出馬は当初の予定よりやや遅れて十四日になります
家康本隊の西へと進むスピードは上がりませんでした。これは旧武田領の情勢を注視していたからで、西に向かったのは、あくまでポーズに過ぎませんでした。
十九日に羽柴秀吉より山崎(京都府大山崎町)の合戦で光秀を討ち果たしたので帰陣されたいと要請がきたため、津島(愛知県津島市)から軍を返し、二十一日に浜松城へ帰陣しました。
家康がもっと早く兵を動かしていれば、光秀を倒すことができたのかもしれません。
つづきは
「信長亡き後、家康の行動は?・・・天正壬午の乱」をご覧ください。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社PHP研究所 月間歴史街道令和五年七月号
片山洋一著 本能寺の変、勃発!命運を懸けた伊賀越え江へ
平山優著 迫りくる北条の大軍、挟撃の危機・・・
天正壬後の乱でみせた采配
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
コメント