木曽の実力者!木曽義仲の挙兵から上洛までの経緯

源頼朝

源(木曽)義仲

義仲の父・義賢為義の次男(頼朝の父・義朝の弟)で、義朝が坂東で活躍するのに対応すべく、上野に下向、ついで武蔵に進出しました。
義仲が2歳の時、大蔵合戦源義平(頼朝兄)に討ち取られたため、木曽に逃れて成長したので木曽義仲と呼ばれるようになります。
兄の仲家は源頼政猶子となり、八条院蔵人に任じられ、以仁王の乱に参加して死去します。

このように父を頼朝の兄に殺され、頼朝が仕えた後白河よりも八条院系統に近かったため、頼朝の関係は疎遠でした。

義仲の挙兵

義仲は甲斐源氏の侵攻で混乱が起きる中、頼朝より遅れる事ひと月後の1180年9月に挙兵します。兄の意思をつぎ以仁王の令旨に応えたかったのかもしれません。

(義仲と巴御前像:義仲館(長野県木曽町))

上野(群馬県)に進出しますが、頼朝との衝突を避けて信濃に戻り、翌年(1181年)6月信濃北部の横田河原で、越後(新潟県)の平氏方有力豪族である城助職を破り北陸に進出します。
城助職の敗戦が奥州藤原秀衡の会津進出を招き、この後続く頼朝の秀衡に対する警戒心を高めたと言われています。

京への食料運搬道である北陸道に義仲が進出し、飢饉に苦しんでいた京の人々は不安になります。
これに対して平清盛は8月15日、藤原秀衡を陸奥(福島、宮城、岩手、青森)守に任命し頼朝追討を、助職を越後守に任命して義仲追討を命じます

義仲の躍進

1182年7月、以仁王の遺児が京を脱出して、義仲の保護下に入り北陸宮と呼ばれました。
北陸宮を擁した義仲には、上洛して皇子の擁立を目指す意思が芽生え、東山道、北陸道に勢力を拡大していくことになります。また、行家が義仲と合流したのもこの時期です。

この時期は飢饉に伴う兵糧不足が懸念され、源氏と平氏は合戦を行いませんでした。
この間に義仲は北陸方面の権力基盤を着々と築いていきます。

頼朝と義仲の対立。

・義仲が頼朝と対立した源行家や志田(源)義弘を庇護したこと。
・義仲が平氏と縁者になって、頼朝に敵対しようとしたことを武田信光(甲斐源氏)が頼朝に告
 げたこと。
以上のことなどから、頼朝と義仲は対立していくようになります。

倶利伽羅峠の戦いと義仲の上洛

北陸宮を擁し一刻も早い上洛を目指す義仲は、頼朝との対立を避けるべく嫡男・義高を頼朝の娘・大姫の許嫁の名目で人質として差し出すことで、鎌倉から追撃される不安を取り除きます。

1183年4月、平氏は平維盛を大将軍として、通守、知盛、経正など一門の精鋭を選りすぐり、10万ともいわれる大軍を編成します。
平氏にとって北陸道の奪還は緊急の課題であり義仲追討の大軍を派遣しましたが、寄せ集めのため士気低く、指揮系統も曖昧でした。

4月26日、平氏の大軍が越前国に入ると火打城(福井県南越前町)を包囲し、籠城していた平泉寺(福井県勝山市)の長吏斉明の内通により城を落とし、加賀国に侵入します。
軍勢は砺波山(石川県と富山県の県境)に着陣し、二手に分かれて義仲を挟み撃ちにする作戦を取ります。
一方義仲率いる軍勢は砺波山に向かい、行家らの軍勢は志雄山に向かいます。同時に平家勢の背後に樋口兼光を向かわせるという作戦を取ります。軍勢は7万といわれます。

5月11日未明、義仲は松明を400~500頭の牛の角につけ、平氏に夜襲を仕掛けます。平氏は慌てて逃げようとしますが、背後も抑えられていたので逃げ道は倶利伽羅峠しかありませんでした。
将兵は暗闇の中先がないことに気がつかず、谷におちて落命し10万の軍勢は壊滅し、維盛は京に逃げ帰ります。

この戦いに勝利した義仲は勢いを得て快進撃を続け、7月に上洛を果たします。

平氏の都落ち

戦いに敗れた平宗盛は京の防御を固めますが、味方の裏切りもありました。そこで、勢力基盤のある西国に落ち、体制を立て直してから、再び京都を奪回しようと考えます。
その際、最も重要なことは正統性を示すために後白河法皇安徳天皇と行動を共にすることでした。

後白河は平氏の動きを事前に察し延暦寺へと逃亡しますが、宗盛は7月25日安徳天皇と三種の神器を携え、西国を目指し京を去ります。

後白河は27日に延暦寺から下山し、28日義仲・行家が入京します。
後白河は彼らに平氏追討を命じます。このことにより平氏は賊軍に転落することになります。

源氏の恩賞

30日に源氏武士の恩賞が決められました。
院や貴族は源氏は一体と見なしており、挙兵の順や元々の地位から第一に頼朝、第二に義仲、第三に行家としました。当然、義仲の不満により頼朝の恩賞は見送られ、謀反人との立場も変わりませんでした。

8月10日、義仲は従五位左馬頭兼越前守、行家は従五位下備後守に任命されますが、義仲はこれも不服とし、5日後に伊予守(受領の最高位)、行家も13日に備前守となります。行家は義仲との格差を不満として、義仲と対立していくようになります。

まとめ

頼朝より遅れる事ひと月後の1180年9月に源(木曽)義仲は挙兵します。
北陸道に進出し、以仁王の遺児・北陸宮を保護下に入れ、倶利伽羅峠で平氏の大軍を打ち破り、平氏が去った京に上洛を果たします。
後白河法皇は義仲の治世に期待していきます。

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