源頼朝 房総で再起し、「鎌倉」入りの経緯

源頼朝

安房上陸

◆安房上陸◆
治承4年(1180)8月29日、相州土肥郷の真鶴岬から小舟で脱出した頼朝は、翌29日わずかな供を連れて安房国猟島(現在の千葉県鋸南町竜島)に上陸します。

◆上総広常と千葉常胤◆
安房に着いた頼朝は勢力を立て直す為、上総・下総に広大な領地を保有し、東国一の勢力を誇った上総広常(かずさひろつね)千葉常胤(ちばつねたね)の合流を待つことになります。
上総広常には和田義盛、千葉常胤には安達盛長を使者として送り、合流を促します。

安房から鎌倉へ

千葉常胤は涙を流して直ちに参戦を決意し、源頼義以来の河内源氏のゆかりの地「鎌倉」への進軍を提案します。
一方、上総広常は参戦に即答はせず合流が遅れまますが、広常は隅田川辺に布陣する頼朝のもとへ2万ともいわれた大軍を率いて参上します。
頼朝は大軍を率いて参戦した広常を喜ぶところが、遅参を咎められます。その態度に広常は「人主の体(人の上に立つ器量)」に叶う大将と感じて服従したと言われます。(諸説あり)

鎌倉へ

頼朝勢は先陣を畠山重忠、殿(しんがり)を千葉常胤が務め、亀ケ谷坂から鎌倉に入ったと伝わります。

由比若宮を遥拝し、父・義朝の邸宅跡(現在の寿福寺周辺)を訪れ、現在の鶴岡八幡宮の東側にある大蔵郷に大蔵御所を建てます。
公文所、門注所も設置し、ここに幕府政務機能を集中させます。以後頼家実朝と源氏三代の将軍はこの場所において政務を行いました。

その他の頼朝ゆかりの地

下立松原神社(千葉県南房総市白浜)
洲崎神社に立ち寄った後、ここで一夜を過ごしたと伝わります。

下立松原神社(千葉県南房総市千倉町)
こちらは千倉町にある下立松原神社。
この神社には鳥居がありません。石橋山の戦いに敗れた頼朝が、遠慮して鳥居の横を通り参拝しようとしたところ、住人が鳥居を抜いてしまったと伝わります。

白浜町下立松原神社境内 頼朝公馬洗い池
頼朝が馬を洗った池と伝わります。

頼朝隠れ岩屋(千葉県南房総市白浜町)
頼朝が野島の弁天堂で武運再興を祈願しているとき、急に雨が降り出し、岩屋で雨宿りをしたと伝わります。

丸御厨(安楽寺)(千葉県みなみ房総市)
頼朝の先祖・源頼義が前九年の役の恩賞として与えられた土地。
この地は、源義朝(頼朝父)が源為朝(頼朝祖父)から最初に譲渡された地でもあったようで、義朝は平治元年(1159)6月1日、頼朝の昇進を願いこの地を伊勢神宮に寄進しました。
頼朝は同28日、上西門院の蔵人に就任します。
頼朝もこの地を、治承4年(1180)9月11日に代々源氏家人であった在地領主の丸五郎信俊の案内で見回りまわったといいます。

名熊の二本杉(千葉県いすみ市)
頼朝がこの地で食事を取り、地面に刺した箸が成長したと伝わります。

硯山長福寺(千葉県いすみ市)
頼朝がこの寺を訪れた際、山号を訪ねたところ住職は山号は無いと答えました。
頼朝が山号をつけようと書き物を所望したところ、住職が持ってきた硯があまりにも見事な硯であったことから硯山とついたといわれます。

長福寺境内 筆掛けの槙
頼朝がこの地を訪れた際、近くで馬の鳴き声がしたので、筆を槙に掛けて近所を確認するように指示したと伝わります。

まとめ

石橋山の戦いに敗れ、真鶴から小舟で脱出した頼朝は、安房国猟島(現在の千葉県鋸南町竜島)に上陸します。
房総の有力豪族である上総広常、千葉常胤らを味方につけ、またたく間に大軍勢に膨れあがります。挙兵時には敵対した畠山重忠も頼朝勢に参陣します。
そして、畠山重忠を先陣に河内源氏ゆかりの地「鎌倉」入りを果たします。

付録

上記の場所を動画でもご覧ください。

〈引用・参考〉

  • 株式会社晋遊舎 北条義時完全ガイド
  • 株式会社三笠書房 板野博行著 眠れないほどおもしろい吾妻鏡
  • 中央公論新社 元木泰雄著 源頼朝
  • 談社現代新書 呉座勇一著 頼朝と義時 武家政権の誕生
  • Wikipedia
  • コトバンク

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