【今回の記事に関連する場所】
①佐和山城、②大阪城、③伏見城、④高野山、⑤駿府城、⑥米子城、⑦懸川城、⑧浦戸城、
⑨浜松城、⑩富田城、⑪横須賀城、⑫福知山城、⑬吉田城、⑭姫路城、⑮岡崎城、⑯柳川城、
⑰清須城、⑱広島城、⑲北ノ庄城、⑳桑名城
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毛利輝元との戦後交渉と秀頼の処遇
関ヶ原の合戦は東軍の圧勝に終わり、十八日には佐和山城を攻略します。
戦勝後の家康が直面した最大の課題は、いかに毛利輝元を速やかに大坂から退去させるかにありました。敗残兵たちが大坂城に入り、秀頼を擁して一戦に及ぶような事態になれば、混乱は長引き、家康の覇権の確立も大幅に遅れることになるからでした。
この輝元との交渉は、吉川広家・福原広俊の仲立ちを前提に、福島正則・黒田長政と輝元間で、また、井伊直政・本多忠勝と輝元間で行われました。
各種書状や起承文が取り交わされ、領地はそのまま安堵することなどが誓われました。この講話によって輝元が大坂城西の丸を出たのは、九月二十五日のことでした。
これを見届け、大津で待機していた家康は二十七日に大坂城に入り、本丸で秀頼と淀殿に対して戦勝報告を行います。
なお、秀頼は合戦に出ることはなかったため、二百二十万石ともいわれた豊臣家氏の蔵入地は大幅に削減されたものの、摂津・河内・和泉で六十五万石を領する大名として、引き続き大坂城に残ることになりました、
西軍大名の処遇
・西軍の主要メンバーのうち、
大谷吉継は討死し、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊(毛利氏の外交僧)などは捕らえられ、
大坂・ 堺、京都市中で引き回しのうえ、十月一日に六条河原で処刑されました。
・三奉行のうち、
南宮山に布陣した長束正家は九月三十日に近江国日野(滋賀県日野市)で自刃します。
大坂城にいた増田長盛は、伏見城攻めに参戦しており、九月二十七日に改易されて高野山に
追放となります。
同じく大坂城にいた前田玄衣のみは、他方で徳川方に通じていたため、十月十六日に
丹波亀山五万石の本領を安堵されました。
・慶長六年(1601)になっても家康に従属する態度をとっていなかった大名は
上杉氏の場合
慶長五年(1600)十二月から家康と和睦交渉を開始し、翌年二月に和睦が成立。
八月八日に家康の出仕。八月十六日に出羽米沢藩三十万石へ減封が決定される。
(百二十万石→三十万石)
常陸佐竹氏の場合
東軍としての軍事参加を表明したが、具体的に軍事参加する以前に、関ヶ原での家康の勝利が
決しており、出羽秋田二十万石に減知転封。
(五十四万石→二十万石)
島津氏の場合
島津攻めの話もありましたが、交渉を繰り返して本領を安堵され、慶長七年(1602)十二月
二十八日に島津忠恒(のちの家久)が上洛し、伏見城で家康に礼を述べて落着となりました。
・西軍で改易となった大名は
宇喜多秀家はじめ八八家にのぼり、没収された総石高は四一六万石余りでした。減封は五家と
少なかったが、毛利輝元・上杉景勝ら有力大名が多かったため、総減封高はニ○八万石余りと
なりました。これに削減された豊臣蔵入地を加えると、およそ七八○万石となり、日本の総石高
の約四〇パーセントが没収されたことになりました。
※改易:現任者を解職して新たな者を任ずること。
守護職・地頭職などの「職」の解任と所領の没収をいった。
※減封(げんぽう):武士の所領や城・屋敷の一部を削減することをいう。
西軍の有力大名であった毛利氏、島津氏を家康は滅ぼしませんでした。
ここで、両者などの有力大名と争いをおこし、不測の事態が生じて「徳川頼むに足らず」という風潮が広がることを避け、地政学的なリスクも考慮したうえで許したという考え方もあります。
東軍大名の処遇
東軍の諸大名には大幅な加増・転封が行われました。
※加増:領地・禄高などを加え増すこと。
※転封(てんぽう):大名の領地を他にかえること。国替え。移封。
・第一に、
秀頼率いる徳川氏の主力部隊の遅参のため、主力として戦った池田輝政・黒田長政・福島正則
など 豊臣系諸大名に四ニ五万石。
・第二に、
家門(一家一門)や、とりわけ譜代の武将たちに二二○万石。
・第三に、
残り一三五万石は徳川氏の蔵入地となりました。
この領地の配分は家康と諸大名が主従関係を結んだことを意味します。
従って、この時徳川家康の政権が樹立したとの見方が広まっています。
(鎌倉幕府、室町幕府の成立年が見直されているのも同様です)
徳川体制に向けて
豊臣系大名は大幅な加増となりましたが、東海地方の諸大名を中心に、遠隔地へと転封させられました。
駿河の中村氏は伯耆米子(鳥取県米子市)、遠江では懸川城の山内氏は土佐浦戸(高知県高知市)、浜松城の堀尾氏は出雲富田(島根県安来市)、横須賀の有馬氏は丹波福知山(京都府福知山市)、三河では吉田城の池田輝政は播磨姫路(兵庫県姫路市)、岡崎城の田中氏は筑後柳川(福岡県柳川市)、尾張清須城の福島正則は安芸広島(広島市)でした。
このような措置によって、関東から東海、そして畿内・近国にかけて松平忠吉を尾張清須(愛知県清須市)、結城秀康を越前北ノ庄(福井県福井市)に置き、さらに譜代の重鎮井伊直政を近江佐和山(滋賀県彦根市)、本多忠勝を伊勢桑名(三重県桑名市)に配し、大坂城の秀頼と西国の外様大名に備える態勢をとりました。
徳川氏が関ケ原で「天下分け目」に勝利したことの意義は、徳川氏が実質的に天下の実権を握り、のちに幕藩体制を確立させていく確かな契機になったことと、戦国の動乱を終結させ「太平」の世を創り出したことです。
他方で、大坂城の秀頼のもとで、豊臣公儀はなお依然として残っていたのです。
秀頼と淀君の前で戦勝報告を行ったことに象徴されるように、家康はなお秀頼の臣下という立場でした。それは関ヶ原の戦いの勝利が、家康に味方した豊臣系大名達の助力によってもたらされたものであったからです。
そのため、諸大名に大幅な加増などを行ったにもかかわらず、封建的主従関係の基本となる領知宛行の判物や朱印状を発給することができませんでした。
この後、家康は豊臣公儀に替わる新たな公儀、すなわち徳川公儀の確立を目指すことになります。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
河出書房新社 本郷和人著 徳川家康という人
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
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