徳川家康 豊臣秀次事件と秀頼体制

徳川家康

【今回の記事に関連する場所】

①伏見城、②大阪城、③聚楽第、④高野山青厳寺、⑤吉野山、⑥伏見
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秀吉後継問題

 羽柴秀吉は後継男子・拾の誕生で、後継路線の変更を考え始め、秀次との政治関係が変化し出します。

 秀吉は関白を辞しましたが、依然として天下の実権は握り続け、縦一位太政大臣の立場にあり、秀次より上位でした。このため秀次の政治活動は朝廷との交渉や秀吉の活動を補完することに限られていました。

 しかし、羽柴家の家督の地位にあることを示す関白職は幼少では就任できない決まりがあり、直ぐ拾に譲ることは不可能でした。
 そこで、秀吉は拾の将来を見据えた対応を取ります。
拾の誕生により名護屋城から畿内に戻った直後の文禄二年(1593)九月四日、秀吉は秀次を伏見城に呼び出します。秀吉は日本国を五つに分け、そのうちの四つを秀次に与え、一つを自分の手元に残すという、拾への継承を前提とした国内分割案を持ち出します。そして、十一月一日には、秀吉は拾と秀次の娘との婚約を決めます。

秀吉と秀次の緊張関係

 十一月十九日には、鷹狩りにいくという名目で尾張・三河に下向し、二十八日付けで九か条にわたる条書を発します。第一条は秀次領の尾張、すなわち秀吉の生まれ故郷の荒廃状況を見て、その復興を命ずる内容ですが、これは秀次の失政を突いているものと見られます。

 また、秀吉は隠居所として建設を進めていた伏見城を、秀頼を迎入れるために、朝鮮出兵で動員しなかった諸大名に命じて、大改築することにしました。家康もこの普請を行っています。
 翌文禄三年(1594)秋にこれが竣工し、秀頼は十一月二十一日に大坂城から伏見城に移ります。このことは、秀吉・秀頼と聚楽第の秀次との関係を、いっそう複雑化することになりました。

 秀吉と秀次の緊張が高まるなか、文禄三年二月には、秀吉は生母・大政所の三回忌法要で高野山青厳寺に参詣するのにかこつけて、吉野で花見の宴を催します。
 二十五日に秀吉は大坂から、秀次は京都から、いずれも美麗を尽くした行装で出かけますが、二十七日には吉野の桜本坊という寺院で二人は同宿します。この吉野の花見には僧侶や公家たち。武家では家康をはじめ織田常真(信雄)、宇喜多秀家、伊達政宗らが供奉しました。

 京都に戻った家康は、拠点を伏見に移し、九月九日や十一月二十五日には秀吉が伏見の家康邸を訪れています。

秀次の自害

 このころ秀吉、秀次の両者の間に目立ったことはありませんでしたが、文禄四年(1595)七月三日、当然両者の不和が取り沙汰されます。

 直接の真相は不明ですが、その前月に医師の曲直瀨玄朔が、後陽成天皇よりも秀次の診察を優先する出来事が起こったといわれます。この事態に、秀次は謀反の意志が無いことを起請文に記し、秀吉に提出して一旦事は収まったかのように見えました。
 しかし、七月八日、秀次は「謀反」嫌疑の弁明で、伏見城の秀吉のもとに赴きますが、面会も出来ず、秀吉の許しが得られないと思います。そして、その夕刻に元結(髷を結ぶ細い緒)を切り、五~六人の供を連れて高野山に出奔してしまいます。
 宇治玉水(京都府宇治市)で一泊しますが、翌九日には秀吉方からも護送の立場の者二名が付けられました。

 この事態を踏まえて、秀吉は七月十日、秀次に不届きのかどがあり、秀次を高野山に追放したと諸大名に朱印状などで伝え、十二日には高野山の住木食応其と惣中に対して、三か条にわたる秀次住山時の処遇に関する朱印状が出されています。

 事態は急速に進み、十三日には御内衆である熊谷直之ら三名が切腹させられ、その首を持った福島正則ら三名が高野山の秀次のもとに遣わされました。
 これは秀次に切腹を迫るもので、、福島らは検死の役を務めることになり、秀次は十五日の四つ時(午前十時頃)切腹して果てました。この報は十六日には京にも達しました。
(秀次の自害については秀吉の命令説、自ら切腹した説、両論あります)

霊社上巻起請文

 この秀次事件が起こった時期に合わせて長大な神文(神に誓約する文)を持つ「霊社上巻起請文」と呼ばれる起請文が作成されています。七月中に五つ作成され、その署判者を見ると
A:七月十二日付石田三成と増田長盛
B:七月二十日付宇喜多秀家
C:七月二十日付前田利家
D:七月二十日織田常真等二十八名
E:七月付小早川隆景、毛利輝元、徳川家康  です。

 いずれも五か条からなり、
・第一条は秀頼に表裏別心なく忠誠を誓うことでほぼ同文ながら、Cの利家は傅役(もりやく)を
 命じられています。
・第二条は太閤様の法度・置目(掟)を守ることでほぼ同文
・第三条は秀頼に粗略であったり、太閤様の置目に背くものがあれば糾明のうえ成敗するとほぼ同
 文であるが、Dでは後半の表現が異なっています。
・第四条はかなり違いがあり、A~Cでは我等に万一分別のないことがあれば、置目を仰せつけられ
 る衆の異見を受けるとしています。Dでは太閤様の御恩を深く受けているので、当人たちはいう
 までもなく、子々孫々までも公儀のために忠功を尽くすといっています。Eでは坂東の法度・置
 目・公事編(訴訟)は家康に、坂西は輝元・隆景に申し付けるとしています。
・第五条も違いがあり、AではDの第四条とほぼ同文である。B・Cでは、不断に在京して秀頼に奉
 公し、勝手に下国してはならないとする。Dでは諸傍輩(ほうばい)間で私的な遺恨で公儀に述懐
 (不平・不満を漏らすこと)をしてはならない。としています。Eでも不断の在京を求め、
 万一用があって下国する時は、家康・輝元が交互にすることとしています

 この起請文は秀次事件という豊臣政権の危機に対して、政権を建て直し秀頼の地位を安泰なものにするために有力大名に提出させたと考えられてきました。
ところがそうではなく、直接の契機は十日か少なくとも十二日以降に秀吉の病が重篤になったという状況下で、秀吉の死を想定して作成されたとする新説も出ています。
 そこには秀吉死後を想定した。新たな政権構想がみられるとするものです。
すなわち、秀頼を頂点に在京を原則とした徳川家康有力大名の「大老」と、石田三成ら奉行衆による新たな「公儀」体制ヘの指向でした。しかし、この政権構想は八月八日に秀吉の病が本復したため、この時点で実現することはありませんでした。

秀吉の「御掟」

 八月二日には、洛中を引き回されたあげくに、秀次の妻子や待女たち三十人余りが京都三条河原で斬殺されます。その翌三日付で、「御掟」「御掟追加」が発令されます。

 前者は五か条からなり、小早川隆景、毛利輝元、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、徳川家康の連署による発給で、諸大名を対象とした法令で以下のような内容でした。
1:大名間の婚姻は、秀吉の御意を得て行うこと
2:大名・小名が相互に盟約を結び、誓紙などを取り交わすことを禁止する。
3:万一喧嘩・口論が起こった時は、堪忍(こらえしのぶこと)したほうが道理があるとみなす。
4:無実と申し上げる者があれば、双方を召し寄せて、きびしく糾明する。
5:乗物赦免の衆について、これらは主として武家(大名・小名)の統制をめざしたものである。
 この六名が選ばれたのは、隆景を除いて五十万石を超える身上であり、伊達政宗、佐竹義宣、島津義弘を除けば石高の多い大名から選ばれました。隆景は四国征伐や九州征伐に参加し武功を挙げ、秀吉が信頼を寄せていました。
 また、この時点では家康、輝元、隆景と利家、景勝、秀家の間には格差があったといわれます。

 後者は九か条で、公家・門跡・寺社・武士・百姓など、支配全般にかかわる法令でした。
のちの江戸幕府の「武家諸法度」や「禁中並公家中諸法度」に受け継がれた条項も含まれてました。こうして太閤政権のもとで豊臣公儀が最終的に確立しました。

 

五大老・五奉行体制の前身

 ここで連署している有力六大名は豊臣政権末期の慶長三年(1598)に成立したいわゆる五大老・五奉行制の前身といえるでしょう。

 文禄四年(1595)の秀吉死後を想定した政権構想が顕現し、小早川隆景は前年六月に死去していたので、五大老は隆景を除く五名でした。
 秀吉の遺言書の宛先順でいえば、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家となり、家康は二百五十万石という領国、正二位内大臣という高官位から、五大老筆頭という立場でした。
(文禄三年九月十七日秀吉は妻淀君の妹・江を養女として、徳川秀忠に嫁がせ、あらためて羽柴・徳川両氏間の関係を強めていました。また、文禄五年五月九日、家康は秀吉同伴による拾の初上洛に供奉し、五月十一日に正二位内大臣となり、十三日には秀吉と拾に従い、牛車で参内しました。)

 なお、五奉行は前田玄衣、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束(なつか)正家の五名です。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
株式会社日経BPマーケティング 安藤優一郎著 賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実
ウィキペディア
コトバンク

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