徳川家康 豊臣氏滅亡への家康の戦略とは

徳川家康

大坂冬の陣

 慶長十九年(1614)九月七日付けで毛利秀就(毛利輝元の嫡男)・島津家久(島津義弘の三男)・鍋島勝茂(鍋島直茂の嫡男)らを始めとする西国諸大名から起承文を徴収し、豊臣氏との開戦の準備を始めていました。
 十月一日に京都所司代・板倉勝重から大坂城内で片桐且元殺害計画があることを知らされると家康は豊臣家の且元への動向を徳川家への敵対行為と見なし、出馬を決意します。
 家康はこれを秀忠に知らせるとともに、諸大名にも出馬を命じました。豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・加藤嘉明らは江戸に留め置かれました。

 十月十一日、家康出陣、東海道を下り、十九日には美濃国岐阜に到着します。この日秀頼より弁明書が届きますが、取り合いませんでした。
 十月二十三日、将軍秀頼も江戸を出陣し、十一月十日に伏見城に入城。翌十一日二条城で家康と対面します。
 十五日、家康は二条城から、秀頼は伏見城から出陣し、多さに向かい、十七日に家康は住吉に、秀忠は平野に進出しました。
 翌十八日、二人は茶臼山に登り藤堂高虎、本多正信らと攻城の作戦を練ります。翌十九日には住吉で軍議が開かれました。

 大坂方も方広寺の両供養が延期になった頃から、籠城戦に十分な兵糧米を確保するなど、開戦を予想し準備を始めていました。
 秀頼の呼びかけに応える大名はいませんでしたが、長宗我部盛親 ・後藤基次(又兵衛)・真田信繁(幸村)・毛利勝永・明石全登らをはじめ、関ケ原での敗戦から再起を期する牢人たちが入城し、籠城軍は一〇万ほどに及んだといわれます。

 幕府軍は十一月二十六日に今福・鴫野の戦い、二十九日に野田・福島の戦い、博労淵の戦いで勝利を収めました。
 豊臣方は十一月末に全軍を大坂城郭内へと引き上げます。 
豊臣方の基本戦略は籠城戦でしたが、惣構の南側は空堀で手薄であるとして、真田信繁は「真田丸」とよばれた出丸(砦)を築きました。徳川方がこれを攻めたところ、鉄砲の威力などでさんざんな敗北を喫します。

 秀頼は期日を決めて全軍で総攻撃を仕掛ける強硬論でしたが、家康は小敵を侮るべきではなく、かつ戦わずして勝利を収めるのが良将であると諭したといいます。
 十二月九日、家康は諸大名に毎夜鬨の声を上げ、鉄砲・大砲を大阪城に打掛け、敵が眠るのを邪魔するように命じています。
 十日には大阪城内に降参する者は赦免すると書いた矢分を打ち込み、敵方の動揺を誘っています。十六日には大砲の配備を済ませ、大阪城への砲撃を開始します。

大阪冬の陣の和睦条件

 家康は豊臣方に和睦を申し出ますが不調に終わります。
しかし、十八日から豊臣方は常高院を家康は側室阿茶局を代表に立て、和睦交渉を再開させます。
 常高院は本名を初といい、淀君の妹で、姉淀君は秀頼の母、妹江が秀頼の妻という関係から豊臣。徳川の仲介に奔走した人物です。

十二月二十日にようやく和睦となりました。その条件は
① 本丸を除き、二の丸、三の丸などはすべて破棄すること
② 淀君は人質にならなくてよいが、大野治長・織田有楽から人質を出すこと
③ 秀頼とその知行地については保障すること
④ 秀頼が大坂城を立ち退くというのであれば、どこの国でも望み次第とすること
⑤ 籠城した牢人衆には咎め立てしないこと

 こうして、堀の埋め立てなどは秀忠に任せ、家康は十二月二十五日に二条城に凱旋し、翌慶長二十年正月三日に駿府へと下りました。

駿府城(静岡市葵区)

大坂夏の陣への布石

 三月になると京都所司代板倉勝重らから、大坂方の不穏な動きが伝えられます。堀や塀の修復を始めており、兵糧米や木材を運び込み、牢人たちは冬の陣よりも多いという情報でした。

 この間、家康は秀頼に対して、
① 大坂城を明け渡し、大和か伊勢辺りに国替えするか
② 全ての牢人たちを召し放つか、
 いずれかの対応を取るように迫っていました。

 四月四日、家康は息子義直の祝言のため尾張名古屋に向けて出発します。 
四月五日に大野治長の使者がやってきて、国替えについてはご容赦という返答でした。
 ここに家康は再戦を決意し、六日から七日にかけて諸大名に出陣を命じています。
家康は十二日に義直の祝言を済ますと、十五日に名古屋を発ち、十八日に二条城に入ります。秀忠も二十一日に伏見城に入りました。
 二十四日に家康は常高院らに大和郡山への国替えか、 牢人衆の召し放ちか、三か条の書付を託し和睦を持ち掛けてしますが、豊臣方は和睦を受け入れませんでした。
 これが最後通牒となりました。   

大坂夏の陣、豊臣氏の滅亡

 家康は全軍を大和方面を進む軍勢と河内方面に進む軍勢に分けて進軍し、道明寺あたりで合流する作戦を決めます。
 家康は秀忠と河内方面を進む軍勢を指揮することにし、五月五日に大阪に向けて出陣します。
五月六日、徳川方は道明寺の戦い、八尾・若江の戦いで勝利を収めますが、先方の津軽藩藤堂家・彦根藩井伊家が大打撃を受けるなど被害も少なくありませんでした。
 翌七日、家康は天王寺口、秀忠は岡山口に陣取ります。

 豊臣方は六日には後藤基次や木村重成らが討ち死にし、七日には真田信繁が家康本陣に攻め入り、家康の馬印が臥されるまでの激戦となりましたが、討死。
 豊臣方は敗北、大阪城は落城します。
 落城直前に大野治長が千姫(秀忠の娘で秀頼の正室)を脱出させて家康のもとに送り、秀頼と淀君の助命を願いましたが、秀忠が断固として受け入れませんでした。
 翌五月八日に秀頼・淀君らが自害し、豊臣氏は滅亡しました。

家康は豊臣家を滅ぼすつもりであったか

 従来、家康は能動的に豊臣家を滅ばしたと考えられてきました。
しかし、家康は、牢人の召し放ちと、淀君を人質として江戸に差し置くこと、ないし転封をを受け入れること、という決して厳しい条件ではない条件で、一貫して和睦を持ち掛けていました。

 これらを踏まえると、家康が明らかに豊臣家を滅ぼすことを避けようとしています。
家康にとっては秀頼が臣従を受け入れれば、充分だったに違いありません。
 豊臣家が滅亡したのは、秀頼の判断ミスによるものと見ることができるであろう。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
ウィキペディア
コトバンク

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