徳川家康 秀頼体制への移行と五大老・五奉行

徳川家康

明国との交渉の継続

 羽柴家当主・関白の座にあった秀次の自害に、世の中が揺れていた文禄四年(1595)も明国との講和は続けられていました。

 前年の文禄三年(1594)に明国との折衝担当を務めていた小西行長らは秀吉の要求を「日本国王」としての冊封にすり替え、秀吉の明国ヘの降伏の意を示した「関白降表」を偽作して明国に遣わしました。これを受け、明国は日本国へ使節を派遣します。
 ※冊封(さくほう、さっぽう):称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣
                の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/
                「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。
               「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国
                諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。       

 その頃、秀吉は進展しない講和交渉の中で、関白秀次を名護屋城に出陣させ、朝鮮半島ヘの再派兵計画を示します。しかし、明国使節が派遣されるとの報せを受けた秀吉は計画を撤回し、五月十二日にあらためて講和条件の要求を行いました。
 その内容は
1:明皇帝の命により朝鮮国を許す代わりに朝鮮国王子を人質として差し出し、日本国が管轄する
  朝鮮半島南部をその王子に与えること。
2:朝鮮半島南岸に設けた諸城十五城のうち十城を取り壊すつもりであること。
3:明皇帝の求めにより、秀吉は上位者の立場から朝鮮国を許すので、明国の勅使が皇帝の詔書を
  携え日本国に来ること。また以後、日明両国間の勘合貿易を実施すること。でした。

 ここでは、文禄二年(1593)六月二十八日の時の七ヶ条におよぶ要求に比べ、譲歩が見られますが、「唐入り」の功績としていた朝鮮王子を人質として差し出すことと、朝鮮国南部を割譲することは依然、要求として貫かれていました。
 こうしたことを踏まえて、秀次事件を鎮めた後、秀吉は明国使節を迎えるべく準備を進めました。

明国使節の来日

 明国使節は文禄五年(1596)潤七月に朝鮮国釜山を出発し、日本国へ向かいました。

 ところが、潤七月十二日から十三日にかけての深夜にかけて畿内では大地震「文禄地震」がおきます。
 マグニチュードハともいわれる大地震により、多くの死者が発生、倒壊も起き、秀吉のいた伏見城でも、天守閣をはじめ建造物が倒壊しました。また、同地の家康の屋敷では長屋が倒れ、加々爪政尚ら家臣が亡くなっています。
 この惨事のなか、秀吉は十五日に山城国木幡山(京都市伏見区)に新たな伏見城を築く準備に取り掛かります。

 秀吉は九月一日大坂城で明国の使節と対面します。
この場で、秀吉は「日本国王」の冊封を受け、列席した家康は筆頭として右都督(うとく)となるなど、明国の官職が諸大名にも授与されました。

 しかし、後日、明使節が朝鮮半島からの日本勢の完全撤退を求め、さらには、朝鮮国王子が差し出されなかったことに秀吉は激怒します。
(秀吉は朝鮮国王子の人質と半島南部の割譲を「唐入り」の功績とするつもりでした)
 その結果、講和交渉は決裂します。
そして、慶長二年(1597)二月、秀吉は一門衆の小早川秀秋を総大将に、朝鮮国ヘの再派兵を命じます。

慶長の役・丁酉倭乱(ていゆうわらん)

 慶長二年から始まった慶長の役・丁酉倭乱(ていゆうわらん)は朝鮮半島南部の確保を目指した戦いでした。
 戦闘は六月から開始され、日本勢は朝鮮半島南部の確保に攻勢をかけていましたが、やがて明・朝鮮両国の軍勢による反攻に苦戦を強いられます。

秀頼体制への布石

 朝鮮半島での戦いのかたわら、秀吉は慶長二年(1597)九月、秀頼と改名していた拾を禁裏(天皇御所)で元服させるため、二十五日、家康らに供奉させて秀頼とともに上洛し、二十八日に参内のうえ、秀頼を縦四位下左近衛権少将に任じさせ、翌二十九日、秀頼の官職は左近衛中将になります。
 そして、翌年の慶長三年(1598)四月十八日には秀頼は秀吉とともに参内、二十日には、数え年わずか六歳にして縦二位権中納言となりました。
 秀吉は後継の秀頼に天下人を継承させるべく、その立場を固めることに勤みます。

 慶長三年(1598)三月十五日、秀吉は京都の醍醐寺三宝院裏山で花見の宴を開きます。
正室の北政所や淀殿をはじめ、側室、さらには諸大名の妻などで千三百人の女性を招いた盛大なものでした。 

 しかし、この時点で秀吉の体は病に蝕まれていました。、
豊臣政権は唐入りの失敗、秀吉の病、後継秀頼がまだ幼少ということが重なり、日本国の平和維持に関わる緊急事態を迎えてしまいます。

五大老・五奉行体制

 そして、病に臥せった秀吉は、秀頼が成人するまでの間、これまでの豊臣政権を軍事・外交・政治・秩序面で支える立場にあった有力大名を政権中枢に参加させ、政権運営の実務にあたっていた秀吉側近と共同で政務を執ることを求め、「五大老」、「五奉行」を設置します。
(五大老・五奉行の呼称は江戸時代に命名された)
五大老:徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元
五奉行:前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家

 五大老はあくまでも秀頼を補佐すべき代行者として、五奉行による政治運営に支障がなきよう取り計らい、その処断は秀吉が定めた通りに進めることが求められました。
 彼らの政治運営は朝鮮国からの撤退に対処したことを除いて、日常的に一同が集まることはなく、それぞれの邸宅に文書が回覧されたものに承認を加え、花押を据えるだけであったと推測されます。

秀吉の遺言と家康へ及ぼした影響

 五月に入り、秀吉は症状を重くしていきます。
「太閤様被成御煩候内(たいこうさまおわずらいなされそうろううち)に被為仰置候覚(おおせおかれそうろうおぼえ)」と題する遺言書(十一条)を五大老・五奉行に宛てて出し、起請文を全員から集めています。

 内容は
「家康は律儀なので、近年、昵懇にしてきた。だから我が子・秀頼を家康の孫娘(千姫の婿)とした。どうか盛り立ててほしい。とくに家康は伏見にいて政務をおこなうように。前田利家は幼友達なので、秀頼の傅役とする。秀頼と大阪城に入って彼を補佐してほしい。二人の息子である徳川秀忠と前田利長も、老いた父たちの職務をよく補佐するように。宇喜多秀家よ。お前はお前は幼いころから私が育ててきたのだから、秀頼を放っておかないでくれ。上杉景勝と毛利輝元も律儀な人柄なので、秀頼のことをよろしく頼む。五大老は法度の背かず、仲違いをしてはいけない。もし不届きな者がいれば斬りなさい。五大老・五奉行は、今後はどんなことでも家康と利家にはかり、その判断をあおぎなさい」
というもので、家康はさらに三年在京し、伏見で留守役を務めることが指示されています。

 こうして家康は五大老の一人として、前田利家と並び大きな権限を有して豊臣政権の政治運営に関与することを認められました。
 また、この遺言の意味するところとして
 ・家康を大阪城と比較すると脆弱な伏見城周辺に人質として留め置き、容易に帰国できない状況
  を生み出す意味があり、政権の本体は豊臣家宗主。羽柴秀頼とともに大阪城にあることを意味
  するという説。
 ・秀頼が成人した際には政権を返還することを条件に、家康に政権を譲ったとする説
もあります。
 いずれにしても、秀吉死後の政情において、彼の立場や活動に大きな影響を及ぼすことになっていきます。
(この時点では五大老は徳川家康VS前田利家+宇喜多秀家(利家の娘婿)とする構図で、上杉景勝と毛利輝元との間には格差があり、輝元の地位の低下がみられます)

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社日経BPマーケティング 安藤優一郎著 賊軍の将・家康 知られざる関ヶ原の真実
ウィキペディア
コトバンク

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