徳川家康 秀吉の死と家康の権力増大

徳川家康

秀吉の死

 慶長三年(1598)八月十八日、天下人の羽柴秀吉は伏見城にて六十二歳の生涯を閉じます。
秀吉の死は厳重に秘匿され、遺体はそのまま伏見城に安置されていました。
翌年四月、秀吉の遺体は阿弥陀ヶ峰に葬られ、豊国大明神として墓の近くに壮麗な社殿(豊国神社)が創建されました。

 秀吉死後、の豊臣政権は政権末期に誕生した五大老・五奉行体制のもと、秀吉の遺言や各種起請文を拠り所に運営されることになります。

 特に八月五日付けて五大老に宛てた遺言は有名で、そこでは「秀頼が成り立つように、この書付けの衆としてお頼みします。何事もこの外には思い残すことはございません」さらに「追而書(おってがき)」(追伸)で、「返す返す、秀頼のことをお頼みします。五人の衆(五大老)お頼みします。委細五人の者(五奉行)に申しわたしています。なごり惜しいことです。以上」といっています。

 さらに十一カ条の「遺言覚書」で秀吉の意向が書き留められています。
 ①一条目は家康、
 ②前田利家、
 ③徳川秀忠、
 ④前田利長(前田利家の嫡男)、
 ⑤宇喜多秀家、
 ⑥上杉景勝・毛利輝元と、それぞれに秀頼の取立を要請しています。
  ※家康と利家は高齢であったので、次の世代である秀忠と利長にも頼んでいます。
 ⑦五奉行は法度違反の訴えがあった場合、双方に意見して仲裁するように命じています。
 ⑧五奉行は歳入地(直轄領)などの算用を行い、家康・利家の検閲を受けることとしています。
⑨何事も家康・利家の御意を得て行うこととしています。
 ⑩家康は伏見城にあって政務をとること、城の留守居は前田玄衣と長束正家が務めるように。
 ⑪利家は大坂城にあって秀頼を補佐し、城の番は皆で務めるように。としています。

 慶長三年(1589)九月三日には五大老・五奉行の十人による連署起請文、いわゆる「十人連判誓」が交わされます。全七条で、
 ①諸傍輩間で遺恨を持ったり、
 ②讒言に与したり、
 ③徒党を組んだりすることを禁じています。
 ④この衆で悪口する者があれば、互いにその人を告げること。
 ⑤諸事の御仕置などは、十人の衆の多数決で決める。
 ⑥十人の衆と諸傍輩間で、いっさい誓紙を取り交わしてはならない。
 ⑦秀頼様に対して悪逆のことがあっても、出し抜きの生害(勝手な成敗)は禁止する。
という内容でした。

この背景には秀吉死去の前後から、家康と奉行衆、特に石田三成との間に「不和」が表面化し、権力闘争が激しくなったことがあります。秀吉死去直後の緊迫した空気の中五大老・五奉行はあらためて秀頼ヘの忠誠と互いの関係を確認し、まず朝鮮からの撤退にあたったようです。
そのため秀吉の死は年末まで秘匿されました。

朝鮮半島からの撤退

上杉景勝は在国中で上洛は十月七日であったため、四大老の連署書状で朝鮮在陣の諸将に通達がなされました。
八月二十八日付黒田長政宛の四大老書状では、
 ・帰国を命ずる秀吉の御朱印・覚書を携え、徳永寿昌・宮城豊盛を朝鮮に派遣する。
 ・引き揚げ用の船も必要だと上様(秀吉)が仰せ付けられ、新艘(新造の船)や諸浦にある船を
  送る。
 ・博多には毛利秀元(毛利輝元の養子)・浅野長政・石田三成が出向いており、必要とあれば
  渡海して相談する。 などでした。

 これにより、秀吉の生存を装いながら、朝鮮側の反転・攻勢をしのぎつつ、十一月末、朝鮮半島に在陣していた諸将が帰国の途につき、十二月には博多に帰着しました。この時まで秀吉の死は秘匿されました。
 ここに、七年に及ぶ対外戦争は終結し、豊臣政権には、疲弊した国内の復興と平和維持が求められました。

家康糾問と前田利家の死

 慶長四年(1599)元旦、秀頼は羽柴家の家督を継承して伏見城で諸大名から年頭の挨拶を受けます。そいて正月十日、秀頼は父秀吉の遺言により前田利家にともなわれて伏見城から大坂城に移ります。この時、家康も供奉しますが、身の安全を図るため、すぐに伏見に戻ります。

 しかし、十九日になると四大老・五奉行は家康を糾問します。これは家康の六男忠輝が伊達政宗の長女を娶り、福島正則の養子正之と蜂須賀一茂(のち家政)の子息豊雄とに家康の養女を嫁がせる約束を行ったというためでした。

 「御掟」第一条では、諸大名の婚姻は御意(秀吉)を得て行うということになっていましたが、家康がそれに背き、私的に婚姻を結ぼうとしたとして責められたのです。

 (しかし、別の説では「家康は、自分が天下に対して異心を抱いておるがごときは誰の讒言であるかと問い詰め、さらに自分を秀頼の補佐から除去しようとすることは、太閤秀吉の遺命に背くのではないかと逆襲した」との説もあります)

 しかし、秀吉亡き後の「御意」の担い手が曖昧だつたこともあり、二月五日に双方で起請文を取り交わし、私婚の責任は問わないまま、今後はお互いに遺恨を持たないことを約して決着をみました。

 その後、前田利家が、病の身を押して二十九日に伏見の家康邸に赴き、これに対して家康も三月十一日に大坂の利家邸を訪れて、利家を見舞います。これによって両者は関係を改善しますが、
 閏三月三日、利家が死去します。同日付で五大老が発した文書では、利家に代わってその子の利長が連署に加わっていますが、もとより父の勢威光に及ぶべくもなく、家康の力が増すことになりました。

石田三成の失脚

 利家の死去を契機として、大坂では七将が石田三成を襲撃しようとする事件が起こります。

 七将とは、細川忠興、蜂須賀一茂、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長で、武功派・吏僚派の確執に加えて、朝鮮出兵の折に三成派の軍目付の報告により、諸将らが秀吉の譴責処分を受けるということがあり、三成との間に軋轢が生じていたことにもよります。

 三成はこの襲撃に際し、大坂を退き、伏見城内の自邸に入り、伏見にあった毛利輝元や上杉景勝と連携をとろうとしました。

 両者を調停したのは家康で、閏三月九日付の浅野・蜂須賀・福島宛の家康書状によると
 ・三成は近江佐和山城(滋賀県彦根市)への退隠することにより、明日佐和山に向かうこと
 ・昨夜三成の子息重家が人質としてやってきたこと、などを伝えています。
そして、家康は十三日向島(京都市伏見区)の自邸から、豊臣政権の政庁である伏見城に入城します。

 これを伝え聞いた奈良の多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)はその日記で、「天下殿になられた、めでたいことです」といい、世間では家康が天下人になったと認識されます。

 二十一日には三成に加担していた毛利輝元と和解の起請文を取り交わしましたが、家康が「兄弟のごとく」といっているのに対して、輝元は「父兄の思いを成し」といっており、両者の上下関係が明確になりました。

 こうして五大老・五奉行から利家と三成という有力な二氏が抜け、しかも私婚問題から始まった一連の政争を経て輝元が屈服したため、豊臣公儀を担う家康の政治的立場は、ますます重みを増していきました。

家康暗殺計画と家康の大阪城入城

 その後、八月には上杉景勝、前田利長が相次いで帰国したため、上方に残った大老は三名となります。九月になると事態が大きく動きます。

 九月九日の重陽の節句に秀頼へ祝詞を述べるため、九月七日に伏見から大坂に下り、空き家となっていた三成邸を宿所としました。そこへ増田長盛らがやってきて家康の登城時に暗殺する計画があると告げます。(最近では、この暗殺計画は事実ではなく、利家長方を排除しようとするために捏造されたものとみるようになっています)
 これをきっかけに徳川方は警護を厳重にするために伏見から軍勢を呼び寄せます。九日には無事に秀頼への礼を済ませており、十二日には宿所を城内の石田正澄(三成の兄)邸に移します。
 さらに二十六日には、秀吉の北政所高台院が大坂城西の丸を明け渡して京都に去ったため、家康は西の丸に入って事実上これを占拠するとともに、新たに天守まで築造しました。

五大老・五奉行体制の形骸化

 家康暗殺計画の首謀者は前田利長で、浅野長政や大野治長・土方雄久らが仲間といわれました。長政は前田家との関わりが深かったこともあり嫌疑をかけられ、十月には領国の甲斐に蟄居となります。
 治長は淀殿密通の風聞もあり、下総の結城秀康に預けられます。
 利長は弁明の上洛も叶わず、翌慶長五年(1600)にかけて、家康と利長の関係は険悪になり、家康による加賀討伐が行われるとの風聞も起こりました。しかし、慶長五年に入ると和睦交渉が進み、利長の母芳春院(まつ)が人質として江戸へ下ることで決着し、芳春院は五月に江戸に向けて出立しました。
 これは家康が権力を掌握する過程で、利長が失脚に追い込む最初のターゲットなったことを意味するのではないでしょうか。 

 この利長の縁者であった細川忠興(嫡男忠隆の妻は利家の娘)も、嫌疑にかけられ、無実を訴えて十一月には起請文を提出し、翌年正月には三男光千代(のちの忠利)を人質として江戸へ送りました。

 こうして、浅野長政の失脚で三奉行となり、前田利長も屈服したため、秀吉死後の五大老・五奉行制は形骸化してしまいました。家康が大坂城に入って秀頼を補佐することにより、家康は一人で権限を振るうようになり、これを前田・増田・長束の三奉行が支えるという新しい体制となります。慶長五年正月には、年賀に来た諸将たちはまず本丸で秀頼に礼をし、ついで西の丸で家康も礼を受けたのでした。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社河出書房新社 本郷和人著 徳川家康という人
ウィキペディア
コトバンク

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