徳川家康 文禄の役と秀吉の三国国割構想

徳川家康

【今回の記事に関連する場所】

①名護屋城、②釜山、③漢城、④平壌、⑤北京、⑥寧波、⑦大阪城、⑧伏見、⑨京都
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秀吉と東アジア情勢

 天下統一を成し遂げた羽柴秀吉は東アジアとの関係に目を向けます。
これは自らが統一した「日本国」を東アジア世界=国際社会にどう位置づけるかということで、秀吉はこの事業が己の名声を後世に残すべきものとして臨んでいきます。

 秀吉は天正十五年(1589)五月の九州平定の後より、豊臣政権は東アジアへの外交を開始します。
秀吉の外交は大国の明を対等以上に扱い、朝鮮国や琉球国などのその他の東アジア諸国には「日本国」に対する国王の「参洛」や入貢を要求し、応じない場合は「誅罰」を宣告する方針でした。
 こうした秀吉の東アジア外交姿勢は、中華への崇敬と東アジア諸国への蔑視という秩序のなかに「日本国」を位置づけようとしたものでした。

 しかし、明国を宗主国として東アジア世界に展開してきた、冊封体制はすでに解体し、ポルトガル人が進出するなど、東アジアの秩序再編の動きが始まり、明国の中華統治は揺らいでいたが、豊臣政権の通交要求に応じる姿勢は見せませんでした。
 そこで、秀吉は明国に代わり中華を安定させ、秀吉の武威のもとに東アジア世界の秩序と「日本国」の「平和」を維持するため「唐入り」(明征服)に踏みきります。
 また、天下統一により、日本国内の平和がなったがゆえに働き場を失い村を離れた兵士たちに、活躍の場を与えるべく行われたことでもありました。
※冊封体制(さくほうたいせい):中国皇帝が周辺諸国の王・首長に爵位・称号を与えることに
                よって生じる君臣関係

 秀吉から朝鮮国に参洛を強要するよう求められていた対馬宗氏は、朝鮮国に秀吉の天下統一を賀す通信使の派遣を求め、実現します。

 天正十八年(1590)十一月、朝鮮通信使を引見した秀吉は、朝鮮国が「日本国」に服属する意を示したととらえ、朝鮮国に対して、「征明嚮導(せんみんきょうどう・唐入りのための先導)」を要求、対馬宗義智を交渉役に命じます。宗氏は、これを「仮途入明(かどうにゅうみん・唐入りのための道をかりること」にすり替えて交渉しますが、朝鮮は拒絶し、明に秀吉の征服計画を伝えます。

太閤秀吉

 天正十九年八月に嫡男・鶴松を亡くした秀吉は、十二月二十八日に甥の秀次に羽柴家の家督と関白職を譲り。天下の統治を任せる意向を示します。
 それとともに、自らは「太閤」と称して「唐入り」に専念し、翌年三月の唐入りの実行を明言、黒田長政、小西行長。加藤清正ら九州の諸大名に、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)で拠点となる城の築城を命じました。
 ※太閤とは前関白の称号で、羽柴家の家督と関白職を秀次に譲ったが、依然として「日本国」に
  おける最高権力者の立場にありました。

家康の名護屋城出陣

 翌年、天正二十年(1592)には唐入りのため、九州・四国・中国勢の渡海計画を策定し、諸大名には肥前国名護屋城への参陣を求めました。
 家康も二月二日江戸を発ち、二十四日までに上洛した後、三月十七日に陸奥南部信直、陸奥伊達政宗、越後上杉景勝、常陸佐竹義宣らとともに、一万五千の軍勢を率いて肥前国名護屋城に向かいました。

 家康が留守となる関東の支配は前年の天正十九年(1591)正月に元服と公家成(縦四位下侍従に任官)を遂げ、この時縦四位下参議となっていた三男で嫡男の秀忠が、宿老の井伊直政と榊原康政の補佐のもとに進められました。なお、秀忠は天正二十年九月九日、官位を縦三位権中納言に進めます。また秀忠は公家成の時より、氏は豊臣姓で、名字は慶長五年(1600)九月まで羽柴を称しました。

 四月末に家康は名護屋城にあり、はじめは名護屋城北東の名護屋浦対岸の地(佐賀県唐津市呼子町)に陣所を設けましたが、のちに秀吉の指示により、名護屋城近所(同鎮西町)ヘ移しました。

文禄の役(壬辰倭乱(じんしんわらん))の始まり

 一方、秀吉は朝鮮国に対して、「征明嚮導(せんみんきょうどう・唐入りのための先導)」を要求、対馬宗義智を交渉役に命じます。宗氏は、これを「仮途入明(かどうにゅうみん・唐入りのための道をかりること」にすり替えて交渉しますが、朝鮮が受け入れることはありませんでした。

 そして、秀吉は三月十三日に九州・四国・中国諸勢の渡海を命じます。さらに同月二十六日、秀吉は肥前国名護屋を目指して京を出陣します。
 四月に朝鮮半島・釜山に上陸した第一陣の宗義智・小西行長が攻撃を開始し、ここに文禄の役(壬辰倭乱(じんしんわらん))が始まりました。
 渡海軍は第二陣が加藤清正・鍋島直茂ら、第三陣が黒田長政・大友義統らで、以下第九陣まで十五万余りという大軍でした。

 その後「日本」は攻撃を続け、五月三日には首都の漢城(京城)を陥落させ、六月には平壌も落とします。この勝利の報を受けた秀吉は、「唐入り」実現後の東アジアについて「三国国割構想」を示します。

秀吉の三国国割構想

 そこには、豊臣政権の東アジア世界の統治構想が示されており、秀吉は後陽成天皇を明国の首都北京に移し、羽柴家当主の秀次を「大唐太閤」として 政務にあたらせること、「日本国」には皇子良仁親王か皇弟智仁親王を帝位につけ、秀次弟の秀保か宇喜多秀家(正妻は秀吉の養女)を関白とし、朝鮮国にも秀次弟の秀勝か宇喜多秀家を、九州には羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)を置く、としていました。
 そして秀吉自身は、東アジア世界における交易拠点の寧波(ニンポー)に居所を定める意向でした。

 武家の天下人は天皇と朝廷を保護し、中央、さらにはそれに従う「日本国」の平和を維持することに努め、君臨します。秀吉は「唐入り」実現後の東アジア世界において、中華の中心に位置するのは天皇であり、羽柴家はそれを保護しつつ統治の実務をという図式を示し、「日本国」内の中央統治のあり方をそのまま適用させようとしていました。
 したがって、秀吉自身の立場も、東アジア世界の政治秩序のもと、保護者として君臨するというスタンスでした。しかし、当時の東アジアの国際認識を欠いた机上の空論といわざろう得ませんでした。

 こうした動きのなか、秀吉と石田三成など側近は朝鮮に渡海すべく動き出します。これに対して家康と前田利家はその危険性を説き、諫止します。特に家康は秀吉に強く求め、石田三成と激論を交わしたといわれます。
 これにより、六月二日秀吉の渡海は翌文禄二年(1593)の三月まで延期されることが決まりました。

母・大政所の死

 この後、「日本」は朝鮮半島全域に経略を進めますが、この頃から朝鮮水軍による「日本」水軍の撃破、朝鮮義兵の決起、明国の大軍派遣により、次第に苦境に立たされていきます。

 こうしたなか、母大政所の危篤の報が入り、秀吉は急遽大坂に帰りますが、名護屋城を発った天正二十年(1592)七月二十二日に大政所は死去したといいます。
 この後秀吉は十一月一日に戻るまで名護屋城を不在にします。

 この間。家康は前田利家とともに名護屋城の留守居を任されます。両者が留守居を任されたのは、彼らが羽柴家の親戚大名であったからと思われます。
 利家は秀吉と同じ織田家の出身で、官位は正四位下参議であり、嫡男・利長の所領と合わせて能登国・加賀国二郡・越中国を領有する「清華成」大名でした。さらに、利家の娘三女麻阿(加賀殿)は秀吉の妻、四女豪は秀吉の養女にありました。

 天正二十年(1592)十一月一日秀吉は名護屋城に戻り、翌春の渡海の意向を示します。

和平交渉の開始

 朝鮮での諸将の苦境は変わらりませんでした。戦況も長期化し、やがて戦意を失っていくようになります。そして、秀吉の渡海も再度延期となります。

 文禄二年(1593)四月、明国との講和交渉が始まり、四月十七日に「日本」勢は漢城から撤退します。五月、講和交渉につき、明国使節を名護屋城に迎えた秀吉は家康と利家に使節を接待させます。

 秀吉は明国使節と対面し、六月二十八日に明国と講和するにあたり七ヶ条の要求を示します。
その内容は明皇女の天皇后妃化、断絶していた日明貿易の再開、誓詞の交換、朝鮮半島南部(四道)の割譲、朝鮮国往時・大臣の人質差し出し、朝鮮国重臣の誓詞提出など「唐入り」事業の功績を示すものでした。これを受け使節は帰国します。

 秀吉は勝者の立場で交渉に臨みましたが、この内容では和議はまとるはずはなく、日明交渉担当者の間で調整(偽作)したうえで、講和交渉は進められていくことになります。
 その一方、豊臣政権は戦闘を収束させつつ、朝鮮半島南部の確保に向けて、九州諸大名を中心とした在陣諸将に警固を務めさせました。

拾(豊臣秀頼)の誕生

 文禄二年(1593)八月三日、大坂城にて妻・淀君(浅井長政の娘・茶々)との間に後継男子(拾、のちの豊臣秀頼)が誕生します。
 この報を受け秀吉は名護屋城を発ち、二十五日に大坂に帰りました。以後、秀吉は名護屋城に戻ることはなく、畿内に滞在し続けました。

 家康も秀吉の後を追うように、八月二十九日に大坂に戻り、秀吉に従い京都に滞在した後、十月に二年ぶりで江戸に戻ります。

 畿内に戻った秀吉は、文禄三年(1594)正月に、山城国伏見(京都市伏見区)の隠居所を新たな政丁として改修するため、築城を命じます。この工事は東国の諸大名・国衆に課せられ、徳川氏も関東領国内の諸将ヘ一万石につき二百人の負担を課し、二月に上洛し、三月から築城工事にあたっています。

 これ以降、家康は京都や伏見に滞在することが多くなり、秀吉に従い、畿内で活動していきます。
文禄三年九月二十一日、秀吉は家康のこのような活動を支えようと、伊勢国内に三五一八石五斗の所領を与えました。
 家康はこの京都や伏間での滞在の中で公家、僧侶、医師、豪商と交流を持ち、活動の範囲を広げ、情報の獲得や教養の習得を行っていきました。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
ウィキペディア
コトバンク

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