徳川家康 徳川公儀の諸制度と家康の最期

徳川家康

その後の豊臣氏

 大坂城落城後に、家康は諸大名や代官らに命じて、大坂方の残党の捜索を、全国にわたってきびしく行わせます。
 秀頼と側室の間の二人の子、八歳の男子国松は五月二十三日に京都六条河原で斬首され、七歳の女子(天秀尼)は命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入りました。

徳川公儀確立へ向けた諸制度

 閏六月十三日には「一国一城令」が出され、居城のみを残し、それ以外の城はすべて破棄するように命じました。

 豊臣公儀が消滅し、徳川公儀を象徴的に示したのが、七月に出された「武家諸法度」、「禁中並公家中諸法度」、「諸宗諸本山諸法度」でした。とくに前二者の制定にあたっては、家康は金地院崇伝や林羅山らに命じて和漢の書物を集め、諸家の古記録を書写するなどの準備を進め、そのうえでいずれも崇伝が起草しました。

・武家諸法度
  全十三カ条で七月七日に能見物で伏見城に集まった諸大名に対し、将軍秀忠の名前で公布
  され、崇伝がこれを読み上げて申し渡しました。

・禁中並公家中諸法度
  全十七カ条で、慶長二十年(1615)七月付けで、大御所家康、将軍秀忠、および関白への
  復帰が決まっていた二条昭実の連署で、十七日に制定されました。
  秀忠が伏見城から家康がいる二条城にやってきて、ここに公家衆を参集させ、両武家伝奏
  のうち広橋兼勝が読み上げて申し渡しました。

・諸宗諸本山諸法度
  元和元年(1615)七月付けで、家康の朱印状によって各宗派の本山宛に出されました。

 こうして、武家、天皇・公家、寺院に対する諸法度の制定を行うことにより、徳川公儀の確立を明確に示しました。

家康の最期

 いっさいの問題を解決し、徳川氏による万全な政権の行く末を見届けて家康が死去したのは、元和二年(1616)四月十七日のことでした。七十五歳にて、その波瀾に満ちた生涯を閉じたのです。

 死期が近いことを悟った家康は四月二日に本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召し寄せ、自らの死後の対応を指示します。
 ①:遺体は久能山に納めること
 ②:葬礼は江戸の増上寺で行うこと
 ③:位牌に三河大樹寺に立てること
 ④:一周忌が過ぎたらば下野日光に小さな堂を建て勧請せよ、関八州の鎮守となろう
との御意でした。

 遺体はその夜のうちに久能山に移され、仮殿が建てられ、廟内に納められました。この間に問題となったいわゆる神号問題は「東照大権現」で決着がつき、家康は神になりました。

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区)
久能山東照宮神廟(静岡県静岡市駿河区)
大樹寺(愛知県岡崎市)

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
ウィキペディア
コトバンク

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